主日の福音08/03/22(No.349)
復活徹夜祭(マタイ28:1-10)
復活のイエスが行く手に立っています
主の復活、おめでとうございます。説教の後、1人の女性の洗礼式を予定しています。縁あって中田神父からご家族のお父様が洗礼を受け、今度はお母様がほぼ1年後の今日、洗礼を受けることになりました。伊王島に住んでいるわけではありませんが、洗礼を受けるお母様にはご家族のシスターが立ち会ってくださっています。こちらのシスターは、見かけたことがあるかも知れません。
今年のご復活のメッセージは、婦人たちと復活したイエスとの最初の出会いから取り上げてみました。稲妻のように輝き、雪のように白い衣をまとった主の天使が空の墓の側にいて、婦人たちに「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(28・6)と復活の事実を告げます。
すると「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(28・8)のです。そしてその直後に、イエスと婦人たちは出会うことになります。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」(28・9)。私はここに、今年の復活のメッセージを読み取りました。
2つの点を特に強調したいと思います。1つは、婦人たちがイエスの復活を弟子たちに知らせるために走って行った中で出来事は起こったということ、もう1つは、婦人たちの行く手にイエスがおられ、出会ったということです。それぞれについて、さらに考えてみましょう。
婦人たちは、イエスの復活を主の天使から知らされ、それを弟子たちに知らせに走りました。ここには、イエスの復活が、「知らせに行くべき内容だ」ということが含まれています。イエスは、今この時にも、私たちと共にいてくださる。その事実は、自分一人でしまっておくべきものではなくて、知らせに行くべき事柄である。これが、最初のメッセージです。
婦人たちは弟子たちに復活の知らせを届けに行きました。ただし、この知らせを弟子たちがどう受け止めるか、信じてくれるのか信じてもらえないのか、不安が残ります。ルカが書き残した記事によると、「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(24・10-11)とあるのです。女性の社会的な立場が弱かった当時とすれば、なおさらのことでしょう。
そこで、イエスは婦人たちの証言の後ろ盾をするために、婦人たちの行く手に立って、「おはよう」と声をかけたのです。墓で主の使いから「急いで行って弟子たちにこう告げなさい」(28・7)と命じられた時、途中でイエスと出会うことなど知らされていませんでした。婦人たちには間違いないと思えるほどの確信はなかったでしょう。そこでイエスの復活を知らせに行く婦人たちの歩みを強めるために、イエスは婦人たちの行く手に立ってくださったのです。これが、今年の復活徹夜祭の2つめのメッセージです。
この2つのメッセージを生活の中で体験してみましょう。私自身の体験を通して考えるきっかけにしたいと思います。私が司祭になって2年目か3年目の頃ですが、結婚のために相談に来たカップルがいました。この方々との最初の面会の時に、いつも通り結婚式までに必要な勉強会のことと、手続きのことをお伝えしました。
それからしばらくして、新郎側のお父さんからこんなことを言われたのです。「息子の結婚のために何ヶ月も勉強が必要だなんて初めて聞きました。以前いた神父様はそんなことはなかった。あなたはどうしてそんなに高圧的に勉強を強要するのですか。あなたはそれでも神父ですか」と、かなりの剣幕だったのです。
その時の電話の応対では、私も少し向きになっていたのか、勉強はどうしても必要です、みんな勉強会を受けていますと、そんな押し問答をしばらく交わしました。その日私は電話のことで気が立っていて、よく眠れませんでした。私の印象では、相手の言い分が一方的だったと思ったからです。
けれども、私もよく考えてみました。いずれにしてもこれは、解決しなければならない問題です。このカップルの結婚式は、おそらく自分が引き受けなければなりません。準備の仕方でいがみ合ったまま結婚式を迎えたら、大変なしこりを残すことになるでしょう。ここは一つ、謝った方がいいという気持ちになったのです。
せっかくだから、その家庭を訪ねて電話でのことを謝りに行こうと思いました。そこは商売をしている家でした。私が電話でのきつい応対を謝りますと、玄関に出てこられたお父さんは、こっちもつい向きになって言い過ぎたと理解してもらうことができました。後にその家の息子さんの結婚式も、無事に終えることができました。
私は当時のことを振り返ってみて、こう思ったのです。ある時自分から行動を起こさなければ、問題を解決できないような場面に出くわします。ところが、行動を起こし、出かけていっても、必ず事態がよい方に向かっていくとも限らないのです。それでも行かなければならない。こういうことがまれに起こるのです。
そんな時、行く手にイエスが立っておられ、声をかけてくださる。訪ねて行ったとしても私の力で解決できるか心配しながら重い足を進めていると、イエスが行く手に待っていてくださり、声をかけてくださるのです。司祭として、あるいは信者として、動かなければならない時、イエスはその行く手に立ってくださり、力を与えるのではないでしょうか。
婦人たちは、復活の出来事を知らせに行く務めを十分理解していました。「確かに、あなたがたに伝えました」(28・7)と、使命を託されたのですが、果たしてうまくいくだろうか、それは心配していたかも知れません。イエスの復活を伝えなければならない。今私は行動しなければならない。けれども、私の力だけでは心配だ。そんな時、イエスは行く手に待っていてくださり、力を貸してくださるのです。
私たちにも、婦人たちは経験したことを教えようとしています。あなたが、信者としてどうしても行動しなければならない時、復活したイエスはあなたの行く手に立って、あなたを力づけ、励ましてくださいます。信頼して、行動しなさい。あなたのすべきことを、誠実に果たしなさいと、促していると思います。
兄弟姉妹で、まだ仲直りできていない人たちがいるかも知れません。教会の中でのわだかまりがあり、あの人がいるなら協力しないとか、まだどこかに問題を抱えているかも知れません。けれども、だれかが信者として行動してくれたら、その行く手にイエスが立っておられ、解決のための力を貸してくださると思います。
今日、復活してくださったイエスに、私たちも信頼を寄せましょう。婦人たちに力を貸してくださったように、また右も左も分からなかった若い神父の問題解決に力を貸してくださったように、復活したイエスは今日も、あなたの行く手に立って、「恐れることはない。行きなさい」(28・10)と声をかけてくださいます。
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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
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