主日の福音08/03/21(No.348)
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
十字架上のイエスに、自分を変えてもらいましょう

昨日の説教で私は、イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれたことを深く心に刻むように呼びかけました。今日もその呼びかけが響き渡ります。聖金曜日、主の受難の出来事は、神が人間をこの上なく愛し抜く、その極みだと思っています。イエスの十字架上の死が、人類をこの上なく愛し抜かれた証しであることを、3つの点から確かめ、感謝の心を呼び覚ますことにしましょう。

ヨハネ福音書は、神がこの世を愛されたことを次のように書き残しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。

父である神は、独り子を世に与えてくださったというのですが、ヨハネ福音書が「世」と言う時は、必ずしも良い意味ばかりではありません。信じない民のことも「世」と表現したりします。そのことも含めて考えるなら、父である神は、独り子を信じる人々にだけ与えたのではなく、神を信じない人々、神に背く人々にも与えてくださったことを意味します。

神は、独り子をこの世に与えてくださいました。その姿は、はじめに幼子の姿で与えられましたが、最後には、十字架上で、その最後の血の一滴まで、与えつくしてくださいました。信じる人、信じることができなかった人、すべての人のために命のすべてを与えてくださったので、世を愛していることがさらに際立ちます。

神は、人間がよい人、信じる人々だったので独り子を与えてくださったのではなく、信じない人々もいることを覚悟の上で与えてくださったのです。独り子を与える神の愛を私たちが知り、感謝する必要があります。特に、信じようとしない人々にまで神の愛が及んでいることを、私たちは忘れてはいけないのです。

次に、命を捨てるほどの愛についてイエスはこう言っています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。人間は神に創られた存在であるのに、神は人間となられ、友と呼んでくださいました。そして神は、人間を深く愛しておられることを示すために、友である人間のために命を捨ててくださいました。これ以上の愛はないと言われるほどの愛を、人間に注ぐことをためらわなかったのです。

最後に、パウロが書き残した手紙から、神の愛の深さを読み取りましょう。ローマの信徒への手紙の中で次のように言っています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5・8)神は、人間には不可能とも思えるような愛の示し方をなさったのです。

パウロは同じローマの信徒への手紙に、次のようにも書いています。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」(ローマ5・16)。イエスは十字架にはりつけになって、すべての人に恵みをもたらす道を選びました。

裁きをもたらす道を選んだとすれば、私たちは一つの罪で有罪だったのです。けれども、十字架の上で父である神に赦しを求め、十字架の上から人類に恵みをもたらす道を選びました。十字架上のイエスによって恵みが働いていると信じるなら、いかに数多くの罪があっても、私たちは無罪の判決をいただくのです。福音朗読のイエスの受難の場面に立ち会って、十字架上のイエスから恵みが働いていることを信じ、感謝したいと思います。

イエスは十字架の死によって、ご自身のすべてを与えること、友としてこれ以上ない愛を注いでくださったこと、この十字架の出来事は恵みをもたらす道であることを示しました。私たちは今日の出来事を深く心に刻み、生活の中で何かを変えていきましょう。

あれこれ条件を付けて与えたくない人を思い描いていた自分、友として接することを拒んでいた自分、イエスが歩んだ道が恵みをもたらす道だと固く信じて人々に語るだけの勇気を持てなかった自分。そのいずれかを、変えていくことにしましょう。

十字架の場面に最後まで立ち会った中に、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、最後にはイエスの遺体を取り下ろしたいと、ピラトに願い出ました。彼は最後に変わったのです。私たちも、アリマタヤのヨセフに倣って、生活の中であいまいだったことを変える勇気を、十字架上のイエスに願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
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