主日の福音08/03/20(No.347)
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
私たちには今は分からないままです

今日の福音朗読箇所で、イエスの2つの言葉を思い巡らしたいと思います。1つは、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)という箇所、もう1つは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)という箇所です。

前もって考えておきたいのは、ペトロとのイエスの不思議なやりとりです。イエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが」と言っていますが、「わたしのしていること」とは、弟子たちの足を洗ってくださったことだけに留まらないのではないかと思っています。

直前の、イエスが弟子の足を次々と洗っていることもペトロには理解できなかったことでしょうが、もっと全体を見てみると、ペトロがイエスを三度知らないと否定してもそれを責めなかったこと、イエスが十字架にはりつけにされて命をささげ、弟子たちは散り散りになってその場にいなかったこと、復活すると言っていたにもかかわらず、ユダヤ人を恐れて家に閉じこもっていたこと、婦人たちが復活を証言してもすぐには信じることができなかったことなど、イエスのことばとわざについてその時にはまだ理解できてなかったことがたくさんあったのです。

それは、いちばん深い所ではイエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれたということについても、ペトロをはじめとする弟子たちが分かっていなかったということではないでしょうか。「わたしのしていること」つまり、世の終わりまで「イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれている」その愛が、弟子たちには計り知れなかったのではないでしょうか。

私は、イエスが、今日の最後の晩さんの食事から始まって、十字架への道のり、十字架上での最後、復活の出来事までなさったすべてのことが、弟子たちを愛し抜かれたという答えだったと思うのです。ペトロが三度イエスを知らないと言ったのに、イエスはペトロを愛し抜きました。弟子たちが最後の場面にいなくても、弟子たちを責めませんでした。復活の証言を最初信じることができなかったにもかかわらず、イエスは咎めることをせず、愛し抜かれたのです。

ペトロを筆頭に、弟子たちはイエスのしていることが理解できなかったわけですが、それは、イエスがどれほど自分たちを愛し抜かれたのかが理解できていなかったということでもありました。目の前で起こっている出来事、足を洗う出来事さえ理解できていませんでしたが、本当は、もっと大きな出来事についても、今は理解することができなかったのです。ただ、イエスがはっきり言っているように、後で、分かるようになるということも確かなことです。今は理解できなくても、後で理解できるのは、弟子たちのすばらしさだと思います。

そこで、私たちが今日の典礼を通して考えたいのは、イエスが「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」このイエスの深い愛についてです。私たちは弟子たちと違って、イエスがどれほど自分たちを愛し抜かれたのかちゃんと理解できる、そう言い切ることができるでしょうか。

いいえ、私たちもやはり、イエスがこの上なく愛し抜いてくださるということが分からない弱い人間なのです。私たちはどこかで、人を愛するにしてもほかのことにしても、限度を付けてしまうのです。「この上なく愛し抜く」というイエスのなさり方を、すばらしいなさり方とは思ってもすべてを見倣うことはできないと感じています。では、私たちには何ができるのでしょうか。

私たちには、今はイエスの愛し抜く姿を理解できないことを素直に認めること、これくらいしかないのだと思います。後に私たちにも聖霊の恵みが注がれ、もっとよく理解できるようになるでしょう。それまで、私たちの弱さをあわれんでくださいとひたすら願いましょう。私たちにはどうすることもできないことがあると知ることが、今は必要です。私たちにできないので、イエスが私たちのためにすべてを成し遂げてくださいます。十字架の最後の場面まで人類すべてを愛し抜かれる、その愛の深さと広さを、今日からの聖なる三日間、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の中で学ぶことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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