主日の福音08/03/16(No.346)
受難の主日(マタイ27:11-54)
百人隊長は何かを見つけ、信仰告白します

人間はたくさんの所有しているものがあったり身につけているものがあります。それら自分の持ち物は、多くは人に分け与えることができます。人に分け与えることができないものは数えるほどしかありません。これは分けてあげられないというものでも、よく考えれば手放すことができるのであって、本当に分け与えられないものは、自分の命であるとか、本性に関わるものくらいしかないのです。

なるほど命は、これはどう考えても分け与えることはできないに違いありません。私たちは命を与えてしまったら、生きていけなくなるからです。私自身が存在しなくなるからです。ところが、第2朗読によれば、神は自分自身を、人間の救いのために与えたと言っています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・6-8)。

まずは神の身分に執着せず、人間と同じ者になられました。誰からも脅かされるはずのない方が、ヘロデに命を狙われてエジプトに避難し、ヨセフとマリアの保護を必要とする小さなか弱い命になられたのです。さらに神は、死ぬはずのないお方ですが、十字架にはりつけになって、人間の救いのために命を手放したのです。

はじめに私たちは、人間の本性に関わるものは手放すことができないと言いました。それは、手放せば二度と取り戻すことができないからです。取り戻すことのできない、無力な存在だからです。ところが、神のひとり子は、私たちのために神の身分をなげうって人となりました。私たち人間を救うために命をかけるしかないとなった時、命をなげうって救いのわざを完成されました。

こうしたことがおできになるのは、神のひとり子、イエス・キリストだけは、命を投げ出しても取り戻すことができるからです。神の身分も含めて、人間のためにすべてを差し出しても、それをすべて取り戻すことがおできになるからです。

福音書に入りましょう。朗読されたマタイ福音書の箇所は、イエスの受難の場面です。登場人物のほとんどは、今まさにイエスが死に向かっている場に立ち会っていて、イエスが命を投げ出しても、取り戻すことができるお方であることはまったく理解していません。

ただし、百人隊長と一緒に見張りをしていた兵士たちは、「本当に、この人は神の子だった」(27・54)と告白しています。百人隊長と兵士たちは、他の人々とは違う何かを見抜いたのではないでしょうか。この点を確かめて、今日の糧として持ち帰りたいと思います。

百人隊長と兵士たちが実際に見たのは、黙って死にゆくイエス・キリストの姿です。人々が、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27・41)とののしる場面も、祭司長、律法学者たち、長老たちが「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(27・42)と侮辱するのも見ています。それでも黙って死んでいくイエスの中に、いったい何を見たのでしょうか。

もしかしたら、百人隊長と兵士たちという身分のおかげで見抜くことのできたものがあるのかも知れません。百人隊長は自分の命令のためには命さえも捨てるという勇敢な兵士百人を束ねる隊長であったと言います。そうであれば、命を捨てることも恐れないイエスの中に、なぜ死を恐れないのか、その理由を探したに違いありません。

勇敢な人間が命を捨てるには何かしらの名誉が必要です。ところがイエスの死は、誰が見てもみじめな死です。何の名誉も残りません。ただの勇敢さでは説明できないイエスの最期を見て、どのような方法かは分からないけれども、この人は命を取り戻すことができるから、命をささげるのだろう。そう理解したのだと思います。

私たちにも、イエスは問いかけています。十字架の死の姿を見て、あなたは私を神の子だと信じますか、私を救い主だと信じることができますかと、問いかけられています。私が、頑なな心のままこの場を去ることがないように照らしの恵みを願いましょう。第2朗読にあるように、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えに」(2・6)なったことを見失わないように、信仰の恵みを願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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