主日の福音08/02/17(No.342)
四旬節第2主日(朗読箇所)
私たちがここにいるのはすばらしいことです

私たちは、当たり前になっていることにはなかなかその良さが分からないということがあります。伊王島・高島の海はお世辞抜きで抜けるような青い海です。そしてその美しさやすばらしさは、私たちにとっては当たり前なので、観光客が船の乗り降りの時に「きゃー、海がきれい」と言っているのがかえって不思議に思えるくらいです。

もう一つ例を挙げると、伊王島・高島は高齢者が多い町です。何を今さらと思われるかも知れませんが、ミサに来ておられる高齢者、あるいは島内で見かける方であっても、私はある時「いいなぁ、あの歳まで生きていて」と思うことがあるのです。

どういうことかと言うと、私は父方の祖父母も母方の祖父母も私が成人式を済ませる頃にはいなくなっていたからです。ですから、祖父母に当たる年齢の人が生きておられることは、私にとっては当たり前のことではなくて、生きているだけでうらやましいことなのです。

なかには、杖がなければ歩いて回れない人もいらっしゃるでしょうし、ひんぱんに病院に通うので、毎日気が重いという人もいるかも知れません。けれども、年を重ねても今日一日何とか生きることができるのは、当たり前のように思えて、当たり前ではないのです。事実、私の祖父母は4人とも会いたくても会えないのですから。

福音に入りたいと思います。3人の弟子が特別にイエスと山に登り、イエスの神々しい姿を見ることになりました。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)私たちは肉眼で太陽を見ることはできません。それほどの輝きをイエスは弟子たちの前で現したのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(17・4)。ペトロがこのように話すのも無理もないことです。

ところで、私たちははじめに、当たり前のことにはなかなかその良さが分からないということを考えました。ペトロは、光り輝く姿のイエスを見て、そのすばらしさを言葉にしたのですが、よく考えれば、もっと当たり前のこと、イエスと共にいること、イエスと寝起きし、町や村を巡って神の国を告げ知らせ、ときには人々に理解されずに辛い思いをしてきたこと、これらのごく日常の出来事が、もともとはすばらしいことなのではないでしょうか。

つまりペトロは、光り輝く姿を見ていなくても、本当は同じ言葉をイエスに言うべきだったのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(17・4)。

もしかしたらマタイは、イエスと共にいること、そのことがすでに「すばらしいこと」であると理解していたのかも知れません。それと同時に、ペトロがまだその点では十分に理解していなかったということも、ここでは匂わせているのかも知れません。

たとえそうであっても、弟子たちはその後イエスの最期の場面までお伴していくなかで、イエスと共にいること、そのことがすでに「すばらしいこと」だったのだと気付いたのです。その気づきがなければ、弟子たちはのちに殉教するほどの固い絆をイエスと結ぶことはできなかったはずです。

ペトロの体験は、私たちにも今の信仰生活について考えさせます。イエスのそばにいる人は、当たり前と思っていることのなかに、すばらしいものが詰め込まれていると気付くべきなのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」。

イエスのそばにいる私たちが、当たり前と思って見落としているすばらしい宝は何でしょうか。ここであらためて確かめ合いましょう。私たちが、自信を持って人に知らせるために、また、信仰を面倒だと思ったり放っておいてくれと投げやりになっている人にも、持っている信仰のすばらしさを思い出してもらうために、気付かないでいるすばらしい宝を確認しておきましょう。

何と言っても、私たちが受けた最高の恵みは洗礼です。洗礼は、私たちが神の子とされる恵みです。神が私たちの父となり、私たちが子としてもらう決定的な恵みです。神が人間と結んでくださる絆がどれほど深いか、預言者イザヤが教えてくれます。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ49・15)。

ある時期は、受けた信仰のすばらしさに気が付かない時もあるでしょう。高校生、大学生になる時期、高校を卒業して社会に飛び込んでいく時、親が側にいることや親の影が見え隠れすることを極端に嫌う時期がやってきます。この時期は親にかまってもらうのがうっとうしく、ついて回ったり先回りしたりすることを嫌がるものです。

そのように、高校生から大人としての一歩を踏み出し始める頃は、天の父の存在がうっとうしく感じたり、ことさらまじめに祈ったりミサに行ったりすることを拒否する時期があるのだと思います。中田神父も、ある時期そういう気持ちになることは、分からないでもありません。

ただ、だからといって肉親の父が高校生から二十歳になる時期に子どもを見捨てたらいったいどうなるでしょうか。その後の人生が狂ってしまうことにもなりかねません。そのことを知っているので、親はどれだけ子どもに嫌がられても関わり続けるわけです。

父である神も同じことです。私たちが青春期に信仰を嫌って遠ざかっても、神は決してその人から離れたりはしません。親から受けた命がすばらしいように、神から受けた命、洗礼の恵みもすばらしいものなのです。それは、親が決して子どもを見捨てることがないのと同じく、神が人を見捨てないことで分かります。

神はご自分の命を与えた子どもたちを決して見捨てません。ぜひ、洗礼の恵みのすばらしさを、時間がかかってもいいから、自分たちの子どもに、日頃教会との交わりを避けている人に、本人が気付くまで教え導いてほしいと思います。

人が神からいただく恵みはすばらしいのです。人が神と関わっているという事実は、すばらしいことなのです。当たり前と思って、驚きも感動もないかも知れませんが、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を上げるのに十分すぎるくらい、私たちは神からの恵みを受けて生きているのです。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-15,19b-26,39a,40-42)
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