主日の福音08/02/10
四旬節第1主日(マタイ4:1-11)
イエスの模範に倣う生き方を探そう

四旬節第1主日を迎えました。この日はイエスが霊に導かれて荒れ野に行き、悪魔から誘惑を受ける場面が朗読されます。イエスは悪魔の誘惑を一つずつ退けました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4・4)「あなたの神である主を試してはならない」(4・7)「「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』」(4・10)。

悪魔を退けるこれらイエスの言葉を合わせて考える時、人間が神の前にどう生きるべきかが問われているのだと思いました。神の前にどんな態度を取ったら、人間は本当の意味で人間らしく生きることができるか。そのことをイエスは40日の荒れ野での誘惑の中で示してくださったのだと思います。一つずつ、考えてみることにしましょう。

悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4・3)と誘惑しました。石をパンにできるのは全能の神だけです。それは人間に、全知全能になれたら素晴らしいと思わないかと、誘惑しているのと同じです。

確かにそうなれるなら、素晴らしいのかも知れません。けれども、人間が全知全能になることが、本当に人間にとって幸せなことなのでしょうか。私たちは知らないことがあり、あることについてはできないことが分かっているので、人間らしい生き方ができるのではないでしょうか。知らないことがあり、できないことがあるから人間は互いに助け合い、協力し合うのではないでしょうか。

人間の分を超えた存在になろうという誘惑は、結局人間を不幸にします。むしろ、全知全能の神に自分を委ね、信頼を置いて生きる時、人間は本当の意味で幸せであると言えるのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とは、人間が神になることが幸せなのではなく、神の言葉に生かされ、導かれる生き方が本当の意味での幸せなのだと教えているのです。

次に悪魔は、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(4・6)と挑みます。「天使たちは手であなたを支える」(4・6)に違いないと誘惑するのですが、これは、神が人間の言うことを聞いてくれるかどうか試してみろと騙しているわけです。

人間が神を試すなら、人間は人間ではなくなってしまいます。神に従う人間こそが、本当の意味で人間らしい生き方です。神に従わず、神を試すなら、人間は自分の分を超えたものになろうとしているのです。それは、悪魔の誘惑に完全にはまっている姿ではないでしょうか。

この場面での誘惑を考える時、私はイエスの十字架の場面を思い起こします。「神の子なら」という言葉を悪魔は使っていますが、マタイ福音書によると、イエスの十字架の場面で人々が「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27・40)と言ったとされています。

これも、御父のみ旨に完全に従おうとするイエスに、神に従わず、十字架を降りてみろとけしかける悪魔の誘いです。イエスは、人間が人間らしく生きる道をきっぱりと示すために、神に従う道、御父のみ旨に従う道をはっきり示してくださったのです。

最後に、悪魔は「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(4・9)と誘惑しました。神を礼拝し、主にのみ仕える生き方が人間らしい生き方です。悪魔を拝むこと、それはつまり神以外のすべてのものを拝むことですが、こうした態度は、本当の意味で人間らしい生き方ではないのです。人間が人間らしく生きていけるように、イエスは40日の断食の中で、空腹になる中で、模範を示してくださいました。

今週の朗読箇所を通して学んでほしい点を最後に短い言葉で示しておきましょう。それは「イエスの模範に倣う生き方を探そう」ということです。第1の誘惑で考えるなら、全知全能になろうという野望を持つことと、全知全能の神に導かれて生きることとはまったく違います。全知全能の神になろうとすることは人間の分を超えた態度であり、全知全能の神に導かれて生きようとすることは人間本来の生き方、しかもすぐれた生き方なのです。

神の前に人はどう生きるべきか。この問いに答えることができる人は、周りの人に自分の生き方を伝える必要があります。あなたも、本当の意味で人間らしく生きるべきです。神になろうと思ったり、神を試そうとしたりせず、神に従う生き方、神の言葉に導かれて生きることを考えてみませんかと、はっきり示すべきです。

私たちはみな、神に従うことが本当の意味で人間を人間らしくするのですよと、人に知らせる使命が与えられています。イエスが荒れ野での40日間の誘惑で示した模範が、私たちを常に励ましています。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
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