主日の福音08/01/27
年間第3主日(マタイ4:12-23)
「今、すぐに」求められているのはイエスに従うこと

先週はおもしろいことが起こりました。日曜日のお知らせで、「来週愛知県の明治村に見学に行くので、馬込教会の水曜日のミサはお休みです」と言いましたが、過ぎた水曜日のミサに、半分くらいの人がお休みしていました。あの時、「来週の水曜日」と言ったんですね。「今週の水曜日」の話をしたわけではないのに、半分くらいの人はその週の水曜日のことだと思ったのでしょうか、お休みしていました。

なかには司祭館の賄いに、「あんた今週は神父さまが出かけるけん、ゆっくりさるっとやろ」とねぎらいの声をかけた人もいたそうですね。あいにく明治村はまだ行ってないんです。あと3日後なんです。これからは、今週一週間のことに限ってお知らせするか、念には念を入れてポスターのように張り出してお知らせをしなければいけないなあと思った次第です。

ついでの話ですが、明日中田神父はフランシスコ病院で半日の人間ドックにかかろうと思っています。今すぐに何かかがあるというわけではありませんが、まったく健康診断も何も受けに行かないので、これを機会に定期的に自分の健康を知るようにしたいと思っています。そのため朝からミサはありません。朝からミサをして、御体と御血の拝領をしてしまっては、検査に差し支えるからです。明日のミサは、夕方の5時半です。

今週の福音朗読のうち、4人の漁師が弟子に選ばれる様子に注目してみました。2組の兄弟がイエスの呼びかけに答えていますが、共通点があります。「すぐに従った」ということと、「イエスに従った」ということです。

物語に出てくる漁師たちは、「すぐに」従いました。「わたしについて来なさい」(4・19)という呼びかけは、普通であれば持ち帰って慎重に検討してもおかしくない内容です。本当に網を捨てるに値する人なのか、私たちの判断が間違っていれば一生を台無しにすることになります。

または、すぐにしなければならないことは別にあるのではないか、考えてみることもできたでしょう。私たちは目の前のことばかりを考えて生きているわけではありません。今日しなければならないこともあるけれども、今週のうちに仕上げなければならないこともあるでしょう。

あるいは、今月いっぱいにしなければならないことや、生きている間に一度は通らなければならないこともあるかも知れません。それら全体を見渡して、「わたしについて来なさい」という呼びかけが、本当に最優先と言えるだろうか。考えることもできたでしょう。

考えればいろいろなことが出てきますが、実際には彼らは「すぐに」「網を捨てて」(4・20)従いました。「舟と父親とを残して」(4・22)従いました。優先すべきことがあったかも知れません。それらの優先順位を変えてまでも、すぐに従うことにしたのです。

私も、ここに出てくる漁師たちの態度で考えさせられることがあります。中田神父は、ここ2、3年ずっと変わらない締め切りをいくつも抱えています。真っ先に思い付くのは日曜日の説教です。これは司祭になってから15年このかたずっと、原稿用紙に6枚分くらいは原稿を書いて準備しています。

また、マリア文庫と言って、目の見えない人のための宗教講話にも毎月15分ものの原稿を用意します。それから、「こじか」という教会学校用の読み物にも毎月毎月記事を提出しています。もちろん、教区報の「よきおとずれ」も毎月の仕事です。

締め切りの付いた仕事に追われっぱなしですが、それでは私の最優先の仕事は何かと聞かれれば、答えは別にあります。小教区の皆さんの必要に応えること。それが、ここまで並べてきたどの仕事よりも、私にとっての最優先の仕事です。

例えば、土曜日に明日の説教をどうしようかと頭を悩ませていたとします。そんな時に長崎本土のどこかの教会から、「病人の容態がいつもより悪くなってきているので、いつか長崎に来た時に病者の秘跡を授けてほしい」と頼まれたとしましょう。私は、船の都合が付けば、書きかけの説教はそのままにして、すぐに病者の秘跡を授けに行きます。

理由は2つあります。1つは、たとえ説教が書きかけであっても、自分の小教区信徒の訪問が最優先と考えているからです。ここでもし、「あー、土曜日は忙しかけん、月曜日にしてくれんね」と言ったとして、それでもしも秘跡を授けることが間に合わなくなったとしたら、取り返しがつかないからです。

もう1つの理由は、病人訪問を後回しにしてもその仕事がなくなるわけではありません。どちらにしても忙しいのだから、今行ってくるのも2日後に行くのも変わりがないと思うからです。どんなに予定が詰まっていても、小教区の信徒の願いを最優先に考える。できる限りそのようにしています。私にとって、「すぐに従うべき相手」は、教区でも全国の人々でもなく、目の前の皆さんだということです。

次に、4人の漁師たちは「イエスに従った」のでした。ほかの誰かが「わたしについて来なさい」と言ったのではありません。ほかの誰かであったら、話は別だったかも知れません。イエスの呼びかけだったから、問答無用で従ったのではないでしょうか。ここにも、私たちが考えるべきことがあると思います。

つまりこういうことです。「すぐに従うべき相手」は誰か。それはイエス・キリストであるということです。イエスが何かを命じたら、私はどんなに急いでいることがあってもそれらを横に置いて、イエスに従うべきなのです。

もしも今まさに取り組んでいる課題があるとしても、優先順位を入れ替えてでも、イエスに従うことを最優先してほしいと、物語に登場した4人の漁師たちは態度で私たちに教えているのではないでしょうか。

今週私たちが学ぶべき糧をもう一度示して説教の結びとしたいと思います。私たちが今すぐに従うべき相手は誰でしょうか。私たちがすぐに従うべき相手は、イエス・キリストです。ときには優先順位を入れ替えてでも、イエスの呼びかけに従わなければなりません。それは命に関わる場面ではなおさらです。イエスの呼びかけを最優先にすることが、結果的には命を救うことだからです。

私は、暮らしの中で何を優先すべきかを正しく判断して生きているでしょうか。ついつい、目の前のことを最優先と思っていないでしょうか。その判断は、イエスの呼びかけを最優先にした判断になっているでしょうか。誤りのないように、判断を遅らせることなく、イエスに従う毎日でありたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(マタイ5:1-12a)
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