主日の福音08/01/13(No.337)
主の洗礼(マタイ3:13-17)
水の中から引き上げられて、愛する子となります
五島・鯛ノ浦に休みをもらって帰ってきました。水曜日に帰って、土曜日に戻ってきたのですが、「ゆっくりしていけばよかとにー。伊王島の人のまっとっとですねー」と言われてしまいました。冗談だったのか知りませんが、土曜日に帰らないということは、日曜日も休めばいいのにってことだったのでしょうか。そんなことできるはずがありません。
それと、一つだけ嘘になることを言って帰ってきたのでゆるしてください。どういうことかと言うと、「ゆっくりしていけばよかとに」と声かけてくれたばあちゃんたちに、「ばあちゃん元気かねぇ」と声をかけたら「元気じゃなかー。しょっちゅう病院に行きよっとよ」と言うので、「杖もついとらんやかね。伊王島のばあちゃんたちは杖ばつきよるばい」って、伊王島の人が誰も彼も杖をついているような言い方をしてしまいました。おゆるしください。
寒くなるに違いないと思って、エスキモーのようにジャンパーの上にジャンパーを着込んで五島での釣りに備えて行ったんです。ところが思いのほか暖かくて、持って行った着物はほとんど無駄になってしまいました。その上釣り道具もいちおうイメージして持って行ったら、これまた役立たずで、持って行って損しました。
何せ錘(おもり)が40号で、ウキも40号を使ってのウキ流しだったんです。これでは持って行った25号の仕掛けはまったく役に立たないはずです。場所を変わってアラカブ・クサブ釣りになったときも、40号の錘でした。最初から手ぶらで行けば良かったと後悔しました。ちなみにクサブを60匹以上釣ったんですかね。クロを5匹、アラカブ4匹、ウマヅラカワハギ2匹、イサキ2匹、あと名前を知らない魚を5匹といった釣果でした。もしインターネットを利用できる人がいたら、掲示板(http://8214.teacup.com/koujimaga/bbs)に釣果を掲載しています。よかったらご覧下さい。
帰ってきて早々、バリバリ働かされています。土曜日は帰ってきてすぐに結婚する人の勉強会、納骨、通夜をしてから説教の準備でした。今日もお葬式が入っていますし、あとでは子どもたちの教会学校が待っています。なかなか、すぐにスイッチを入れ替えるのは大変です。
さて、今日は主の洗礼の祝日です。1つの試みとして、馬小屋のセットをバックにして、ミラクルメーカーというDVDから主の洗礼の場面をお借りして映像で流してみました。あとで片付けてもらいたいと思いますが、おそらくこんな様子でイエスは洗礼を受けたのだと思います。かなりよくできていますので、ミサの後にぜひ一度立ち寄ってご覧下さい。
主の洗礼の祝日に、1つの課題を見つけ出して、生活に取り込んでみたいと思います。それは、「水に沈められ、水から引き上げられる」という体験です。実際にこういう体験を積むことは難しいですが、同じ意味合いのことを生活の中で実践し、あるいは受け入れて生活していってほしいということです。
ではこの、「水に沈められ、水から引き上げられる」という言葉で理解してほしい内容を考えてみましょう。「水に沈められる」とか「水から引き上げられる」という体験は、誰も経験のないことだと思います。あなたが別の人から水に沈められたら、それは警察沙汰になるような事件になってしまう危険があります。つまり、「水に沈められる」ということは、そのまま、人間の死に直結するような出来事なのです。
このような経験を積んでほしいと中田神父は言いたいのです。そして、イエスの洗礼の場面も、同じことを私たちに呼びかけているのだと思います。人間にとって死を意味するような、そういう場面にあえて自分を置いてみてくださいということです。
決して、命を危険にさらしてみなさいという意味ではありません。そうではなく、自分の思っていることとは正反対のことを命じられたり、したくないこと、見たくもないような人に時間や労力を取られる、考えただけでも死ぬ思いだというような、そんな場面を避けないで、むしろ正面から向き合って生きていってほしいということです。
人は誰も、そんな厳しい場面に喜んで自分を置いたりはしません。おそらくそういう場面に身を置くときは、人から強いられていたり、望んでいないのにしかたなくそうさせられていたりということがほとんどだと思います。それで十分だと思います。いやいやそうしていても構わないから、逃げ出したいくらいの嫌な思いにも、避けて通らずに向き合っていただきたいのです。
こうして、あなたが「水に沈められる」ような辛い思いを経験しているなら、もしかしたら、神があなたを「水の中に沈めておられる」のかも知れません。人が神から「水に沈められる」のはなぜでしょうか。それは、「水に沈められる」その先にある「水から引き上げる」ためなのです。
神はしばらくのあいだ人を水の中に沈めたとしても、必ず水の中から引き上げてくださいます。神がその御子イエスを水の中に沈め、水の中から引き上げてくださったように、私たち人間にも、いったん水の中に沈められたとしても、必ず引き上げてくださるのです。神は、私たちを水の中から引き上げてくださる力あるお方なのです。
では、「水に沈められ、水から引き上げられる」ことの意味とか、目的は何でしょうか。イエスが水から上がられた直後に天から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・17)。水に沈められることを逃げない人は、神が必ず水から引き上げてくださり、ご自分の愛する子として受け入れてくださる。父である神は、このように私たちにも呼びかけているのではないでしょうか。
私たちは神に愛される人間であるべきです。神は、御子イエスが水の中に沈められ、水から引き上げられたときに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声をかけてくださったのです。水の中に沈められること、私たちが考えたように、死ぬほど避けたいことに正面から向き合うとき、神がその困難から私たちを救い出してくださり、愛する子であると声をかけてくださるのです。私たちが正面から問題と取り組むことで、私たちは神に愛される人間になるのではないでしょうか。
問題に正面から向き合っても、すべてが解決できるとは限りません。解決できないかも知れません。それでも、神は必ず私たちを引き上げてくださいます。私たちが問題に正面から向き合ったことを取り上げてくださり、愛する子として受け入れてくださいます。
どうしても向き合わなければならない問題があるとき、それは私たちが神から水の中に沈められているのだと受け止めましょう。神が水の中に沈めるのは、引き上げてくださるため、引き上げて、「愛する子」として受け入れてくださるためです。ぜひ生活の中に取り入れて、神から「愛する子」として受け入れてもらう絶好のチャンスを逃さないようにしたいものです。
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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
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