主日の福音08/01/06(No.336)
主の公現(マタイ2:1-12)
幼子にひれ伏す学者たちは態度で教えます

先に、今週の予定をお伝えしておきます。月曜日は、昼から旅番組の取材を受けます。宇梶剛士(うかじたかし)さんという方が旅をしてまわっているという設定だそうです。宇梶さんがどんな人か知りませんが、私もテレビに出そうなので、ちょっと緊張しています。それから、月曜日の夜は評議委員会ですので、集まりを忘れないようにしてください。

小教区の皆さんに直接影響ないですが、火曜日は、年始めの本部会議がカトリックセンターで開かれる予定です。水曜日から、休暇を取って五島に帰省する予定にしています。それで、申し訳ありませんが、病人訪問は月曜日の午前中に組みたいと思っています。どうしても都合の悪い訪問先の方は、ミサの後にお知らせください。休暇は土曜日まで予定しています。土曜日昼には帰ってきます。

休暇の予定を、ふるさとの教会の主任神父さまと、修道院の院長と、実家に知らせました。メモが残るようにFAXを入れておいたのですが、折り返しすぐに実家の母親から電話が来ました。電話の内容を聞いて私は思わず「はー?」と思いました。何を言ってきたと思います?「魚釣りの準備をして帰ってきなさい」という電話だったんです。

準備してきなさいという理由を聞いてさらにビックリしました。父親が、友だちの信者の船を借りて待っているというのです。電話の応対をしながら、すぐ私は目の前の海を見ました。五島の海が今馬込の海と同じ状態だとしても、釣りに出ようと思ったら、寒さ対策も厳重にしなければならないだろうし、釣りのポイントも手探りで探さなければなりません。五島でも趣味を楽しむことができるように計らってくれた親切は分かりますが、命あっての物種だよなぁと思いました。

さて今日は主の公現の祭日です。星占いの学者がようやく馬小屋にたどり着きました。星に導かれて見つけた幼子イエスをひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬のささげものを贈り物として献げたのです。私は今週の説教につながるように、2つの準備をして今日を迎えました。お分かりでしょうか。

1つは、クリスマス夜半のミサの前におこなった聖劇です。どんな内容だったか思い出せますか?博士が登場し、「わたしは平民ではないから絶対に地面に降りない」と言い張っていました。それが、貧しい場所にお生まれになった幼子を見つけ、使用人に「ここで地面に降りてひざまずいてこそ、まことの博士です」と促されて幼子を礼拝したのでした。この聖劇は、クリスマス夜半のミサの心の準備と同時に、今日の日のためでもあったのです。

もう1つは、「よきおとずれ1月号」の「ほしかげ」というコーナーに、クリスマスのことを考えさせるために映画「マリア」のことを書いたのです。ここでも、学者について触れて、「真に礼拝すべき相手を知っている人こそが、真の学者である」とまとめたのです。

これも、今日の公現の祭日の心の準備をさせるために用意していたのですが、中島万利神父さまが昨年末に亡くなって、編集会議の中で「ほしかげ」を誌面から外して、訃報記事を優先させようということになってしまい、私がずっと書き続けている「ほしかげ」は、新年1月号から残念ながら外されてしまったのです。長崎教区の1万8千世帯の信者さんは「ほしかげ」が載っていない事情は知らないわけですが、せめて皆さんは、身を切られる思いで新年1月号の「ほしかげ」を外したんだということは分かってほしいと思います。

今年、ご公現の祭日に、やはり星占いの学者の取った態度から糧を得たいと思います。学者たちの態度で際立っているのは、「ひれ伏して幼子を拝んだ」(2・11)という部分です。学者が、幼子に対してひれ伏したのです。

中田神父は、この姿から、自分自身が経験した1つのことを思い出しました。その経験というのは、司祭叙階式の時のことです。司祭に叙階される人は、叙階式中にすべての人の見ている中、祭壇の前でひれ伏します。それは、司祭が聖金曜日の典礼の時、初めに祭壇の前にひれ伏す、あの時と同じ動作です。

この、祭壇の前でひれ伏す動作には、「神に心も体もすべておささげする」という意味があるのだと教えられました。私は頭の中では言葉の意味は分かっていたつもりですが、「心も体もすべておささげする」ことが生涯にわたって続く、私がこの人生を終えるまで、心も体もささげるという意味だということは、十分分かっていなかったかも知れません。

司祭として10年15年と経過してみると、いろいろ不平不満も出てくるし、それを口に出したり態度に出したりしているからです。すべておささげしたはずなのに、これくらい言っても見逃してもらえる、これくらい反抗しても目をつむってもらえると思い違いしているような気がするのです。

福音に登場する学者たちは、ひれ伏して幼子を拝みました。それは心も体もすべてを幼子の前に明け渡す姿です。知恵も知識も国中に知れ渡っていたに違いない学者たちが、幼子の前で、「わたしたちはあなたの前に無に等しい者です」という意思表示をしたわけです。

そして、その決意に嘘偽りがないことを表すために、黄金・乳香・没薬を贈り物として献げました。これらの贈り物は、自分たちがいつまでもその場に居続けることができないので、自分たちの身代わりに、生涯あなたの前にひれ伏しますという決意のしるしとして送ったものではないでしょうか。

私は、幻となった2008年1月号「よきおとずれ」の「ほしかげ」に書いた通り、「真に礼拝すべき相手を知っている人こそが、真の学者である」と思います。東の国から来た星占いの学者たちは、幼子イエスを拝んだことで自分たちが真の学者であることを証明しました。彼らを見て、私自身のことを考えてみたのです。

私は、徐々に経験を積む中で、不平不満が増えてきました。それを態度に表すこともありました。これは、真の学者の態度ではないと思います。真の学者は、いっさい余計なことを言わず態度に表さず、生涯、イエスにひれ伏す者のはずです。

今年、東方からやって来た星占いの学者たちは、生涯、イエスにひれ伏す態度を貫きなさい、そうすることで真の学者となりなさいと、教えてくれたのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(マタイ3:13-17)
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