主日の福音08/01/01(No.335)
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
みことばから離れない一年としましょう

皆さん新年明けましておめでとうございます。年賀状の挨拶をくださった方もいらっしゃるかも知れません。小教区の皆さまには、この場を借りて年賀状のお礼に代えさせていただきます。今年もよろしくお願いいたします。

昨日説教を書きながら、天気のことがものすごく心配でした。風がちっとも収まらず、おそらく海上も荒れているんだろうなぁと思いながら準備をしました。荒れる一年になるのかしらと思いながら、いやいや見える天気だけに惑わされてはいけない、もっと大切なものを見つけ出して、説教の中に盛り込まなければと思いながら一年の最初の説教を考えておりました。

教会は、一年の始まりのミサに「神の母聖マリアの祭日」を祝うようにと定めました。合わせて日本の教会にとっては今日の1月1日のミサは守るべき大祝日でもあります。神の母であるマリアから私たちが何かを学び取り、一年の歩みの道しるべとするようにと求めていると思います。朗読された福音から、糧を得ることにいたしましょう。

福音は、羊飼いたちが天使に告げられた救い主誕生の出来事を確かめに来て、そのあと出来事を人々に知らせた様子が描かれています。そしてマリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2・19)というものです。

今日の福音から、羊飼いと母マリアの両方に、学ぶべきお手本があると思いました。羊飼いが教えてくれることは、救い主の誕生は、人の心を引きつけ、確かめさせる力があり、出来事を確かめた人は、出来事に促されて人々に知らせようとするということです。もう少しまとめると、この世に現れたみことばは、確かめに来るように導き、人々に告げ知らせに行くように促すということです。

この羊飼いの様子から、私たちも同じ態度を学ぶことにしましょう。新しい一年も、日曜日ごとに教会に集い、福音朗読に耳を傾け、みことばの意味を確かめ、それを次の日曜日まで生活の中で告げ知らせます。こうして私たちは一年を通して、羊飼いと同じ働きを受け継いでいくのです。

さて、羊飼いはもともと移動して生活する人々ですから、みことばが示す出来事を確認してそれを人々に告げ知らせに行くのには適している人々だと思います。けれどもすべての人が、羊飼いのように移動して回る生活をしているわけではありません。みことばの意味を確かめ、それを告げ知らせるのに適している人々もいるでしょうが、あちこちで告げ知らせて回るのが困難な人々もいると思います。

マリアは、羊飼いとは違った形でみことばに応えようとしています。イエスの母となり、幼子を腕に抱きかかえているのですから、羊飼いのように確かめた出来事を人々に知らせに行くことはできません。羊飼いのような方法ではなく、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」という方法で、みことばに奉仕しました。

マリアの態度は、みことばの呼びかけに応えようとするもう一つの大切な方法です。そしてマリアの態度は、羊飼いのように移動して生活する人でなくても、どのような暮らしに置かれている人でも、立派に見倣うことのできる姿です。

ではこの、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」とは、具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか。1つは、みことばにいつも寄り添う生き方だと思います。例えばマリアは、天使のお告げの時に「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(1・32)と告げられました。生まれた子がどのように偉大な人になるのか、そばにいてずっと見守ることは、マリアにとってのみことばに寄り添う生き方です。

同じように私たちも、みことばに寄り添う生き方が期待されています。日曜日ごとに与えられている福音朗読をよく読み返し、何か心にとまったみことばを、一週間かけてふくらませてほしいのです。今週の福音朗読であれば、羊飼いたちが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2・20)とありますから、自分たちも神をあがめ、賛美しながら生活の中に派遣されていこうというようにあてはめることです。こうして、私たちもみことばに寄り添う生き方ができます。

2つめのマリアの模範は、「思い巡らす」ということです。これは、出来事を心に納めるだけでなく、示された事柄の意味が分かるまで、長い時間をかけて味わうということです。

先週の説教で私は、聖家族がエジプトに避難したのには深いわけがあると話しました。早くからそのことに気付いていたのではないことも、正直に打ち明けました。長い時間をかけて、神は出来事の意味を説き明かすことがあります。

エジプトへの避難が、のちにエジプトから戻ってくることに深くつながり、それはまたかつての出エジプトの出来事を十分意識してのことだと分かったのは、まともに聖書を学び始めて15年経ってからでした。

「この箇所はこんな意味だ。それ以上は考える必要はない」と考えて思い巡らすことをやめていたら、私は永遠にエジプトへの避難を深く味わうことはできなかったでしょう。同じようなことは、皆さんにとっても起こりうることだと思います。疑問に思ったことをずっと温め続けていると、いつか答えに導かれる日が来るのです。

「出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」マリアの態度は、体の健康を損なっている人、心に病を得ている人、何かのハンデを背負っている人、どんな人でも見倣うことのできる生き方です。この一年、マリアが示したみことばのそば近くにいる態度を手本に歩いていきましょう。マリアも、私たちのそばにいて、私たちがくじけそうになるとき、声をかけてくださると思います。

マリアは神のみことばであるイエスを抱きかかえた母です。みことばのいちばんそばにいてくださる方です。この一年、私たちがみことばを思い巡らす生活を続けるとき、神の母聖マリアは、みことばに親しむ私たちのそば近くにいて支え、助けてくださいます。
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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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