主日の福音07/12/30(No.334)
聖家族(マタイ2:13-15,19-23)
聖家族のエジプト避難は深遠な神の計画です

説教も時には大変な思いをして準備することがあります。今週の聖家族はなぜかどうにもイメージが涌かなくて、深夜の12時になっても1時になってもいっこうにまとまりませんでした。ようやく書き始めたのが朝の3時です。眠くて仕方ありません。

まずどうして今週の説教がそこまで書けなかったのかというと、もともとの原因は準備不足なのかも知れませんが、もう1つの原因はクリスマス前に観た映画「マリア」のせいだと思います。映画のせいにしてはいけないのですが、皆さんはあの映画の中でのエジプトの砂漠を聖家族が移動している様子をどのように受け止めたでしょうか。「聖家族がエジプトに避難している」それ以上特に考えなかったかも知れません。私もそうでした。

実際、映画はそこで終わっていたわけです。エジプトから戻り、聖家族がナザレに住み着き、幼子イエスが成長していく様子は、今回の映画には盛り込まれていませんでした。実はここに、今週の聖家族の説教がなかなかまとまらなかった落とし穴があったのかもしれません。

聖家族は、夢でお告げを受けてエジプトに避難しました。ヨセフは夢のお告げに忠実に行動しました。でもなぜエジプトに避難したのか、ほかの国ではなく、エジプトでなければならなかったのか、疑問を感じたわけです。どうしてエジプトに避難したのだろうと思い始めたらどうしてなのか分からなくなって、何時間も時間を無駄にして夜更かししてしまいました。

どうしてエジプトに逃げなければならなかったのでしょうか。エジプトでなく、アラビアの砂漠に逃げるとか、あるいはヨーロッパに逃げるとか、はたまたインドの方に逃げるとか、ほかのどの土地でもなくエジプトに避難しなさいと聖家族に命じたのはなぜなのでしょうか。

ところが思いがけないことで解決の糸が見つかりました。答えは今週の福音朗読箇所の中にあったのです。ぼんやり読んでいたためか、見抜くことができませんでした。おそらく、15年ものあいだ、ぼんやり読んでいただけだったのでしょう。15年も何をしていたのだろうと自分に腹が立ったくらいです。

答えはここに書かれていたのです。2章の15節と23節「(主が)預言者(たち)を通して言われていたことが実現するためであった」。結局はこの箇所が、今週の聖家族の朗読箇所を解くカギだったのだと思います。預言者を通して言われていたこと、いったいそれは何だったのでしょうか。

旧約聖書の中でエジプトに関連する最大の出来事はというと、これは疑いもなく「出エジプト」の出来事です。細かいことは分からなくても、モーセが民を率いてエジプトを脱出し、民をエジプト王ファラオの手から守り、約束の地に連れていったという壮大な物語です。

私たちにとっては単なる知識かも知れませんが、イスラエルの民にとっては民族の誇りに関わる偉大な出来事でした。イスラエル人であれば、大人から子どもまで語り継がれた先祖の記憶、決して忘れてはならない貴重な体験だったわけです。

そして、今週の福音朗読は、この体験を踏まえて考えるとき、今までとはまったく違った、新しい発見が得られるのです。さんざん時間を費やして、ようやくそのことに気付きました。大げさなと思われるかも知れませんが、15年かかってやっと本来分かっておくべきことにたどり着いたということになります。

今週の朗読箇所、命を狙うヘロデの魔の手から逃れてエジプトに避難していく場面は、旧約聖書のエジプト脱出の物語を踏まえてでなければ理解し得ないということです。つまり、エジプトに避難することが大事なのではなくて、避難したエジプトから戻ってくるところに意味があるのです。

戻ってくることを考えれば、どうしてもエジプトでなければならないということも分かってきます。イスラエルの民には、エジプト脱出までの長い長い物語がありました。ヤコブの11番目の息子ヨセフが商人によってエジプトに売り飛ばされ、エジプトでファラオの次の位まで上り詰め、家族をエジプトに呼びます。

その後エジプトで繁栄しますが、ヨセフの功績を知らないファラオが国王になり、イスラエルの民を虐げることになります。そこでモーセが選ばれ、民をエジプトから約束の地カナンに導いていくのです。この物語はほかのどの土地、ヨーロッパでもアラビアでもインドでもなくて、エジプトで起こった出来事でした。そして聖家族がエジプトに避難したというのは、イスラエルの民のこのエジプトでの出来事と重ね合わせるときに出来事の本当の意味が見えてくるのです。

つまり、聖家族がエジプトに避難し、のちにエジプトからユダヤに戻ってきて、ナザレに住み着くようになったというこの一連の出来事は、かつてのイスラエルの民に起こったエジプト脱出の再現だったのです。モーセが選ばれ、かつてのイスラエルの民をエジプトからカナンに導き上ったように、神が聖家族をエジプトからナザレに導いた、神が聖家族を救い出したということを強く印象づけるための出来事だったのです。

そう考えれば、果てしなく時間を費やしたことも報われる思いがします。エジプトに避難したこと、そこで止まってしまうとなぜエジプトでなければならなかったのかということで頭はいっぱいになります。ところがエジプトから連れ戻してナザレに住まわせることが計画の中に最初から織り込まれていて、その上でのエジプトへの避難であればその意味ははっきりしています。

それは旧約の出来事の再現、今週の朗読で言えば「(主が)預言者(たち)を通して言われていたことが実現するためであった」この一点に狙いは絞られてくるわけです。こんなことが今まで分からなかったのかという思いと、やはり聖書は奥が深く、説教は生涯にわたる探求の旅だなぁとあらためて実感しました。

ではもう一つ踏み込んで、聖家族がエジプトに避難し、エジプトから戻ってナザレに住み着くようになるのは、単に旧約聖書の預言が実現するためだったのでしょうか。旧約の預言を超える何かがそこにあるのではないでしょうか。ここからは、解説書にない私自身の考えですが、避難したエジプトから家族をナザレに連れ戻したのは、実は御子イエスの働きだったのではないでしょうか。

つまり、イエスこそ、すべての民をエジプトで象徴される苦難の状態から神の子の自由に生きる者へと導き上ってくださる方、まことの救い主だということです。旧約のエジプト脱出の時にはモーセがイスラエル民族を約束の地に連れ戻しましたが、新約においてはイエスが、すべての民族を罪の奴隷の状態から神の子の自由へと導き上るのです。

人間は何かに縛られています。恐怖に縛られていたり、欲望に縛られていたり、名誉や金銭に縛られていたりなどさまざまです。そしてこの縄目は、しばしば人間の力では解くことができないのです。イエスが両親に伴われてエジプトからナザレに戻ってきました。

すべての人を、すべてから解放するために戻ってきてくださいました。私たちもイエスに自分を委ね、縛られているものから解放されることにしましょう。ナザレに住み、これから成長して「天の国は近づいた」(マタイ4・14)と福音を告げるイエスを今は静かに待つことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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