主日の福音07/12/25(No.333)
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-5,9-14)
イエスの誕生にのちの十字架が投影されています

主の降誕おめでとうございます。今年の降誕の喜びを、2つの視点でとらえたいと思います。1つは、旧約で預言された通り、幼子の誕生を迎えたということです。「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14)。

イエスは、前もって予告された「救いのしるし」でした。誕生の瞬間に、だれもいなかったとは言え、イスラエルの民が待ち望んでいた主メシアでした。この視点から考えると、イエスは歴史のある瞬間にお生まれになったことになります。ルカも歴史のある瞬間の出来事であることを補足しています(2・2)。

この1つめの視点を今日の典礼、主の降誕(日中)の福音朗読に当てはめて考えると、「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)という部分になると思います。幼子イエスは、自分の民のところに来ましたが、礼拝に来る人は羊飼いと、あとでやって来る外国の学者しかいませんでした。およそ2000年前、ユダヤの国で起こった出来事です。歴史の1コマです。

けれども、イエスの誕生について、もう1つの視点も忘れてはいけません。それは、全人類のために神の独り子はこの世においでになったということです。歴史上のある瞬間に、ある場所で起こった出来事ですが、すべての人、すべての時代に大きな喜びをもたらす出来事だったのです。

それは誕生して宣教活動に入り、ことばとわざで神の救いを知らせ、すべての人のために十字架上でいのちをささげ、復活したときに明らかにされました。イエスの全生涯を振り返ったときに、あの誕生の瞬間が、単に瞬間だったのではなく、全人類に及ぶ神の救いの計画の始まりでもあったことが見えてきます。

ここでも、2つめの視点を今日の福音朗読に当てはめてみましょう。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1・9)という箇所が当てはまります。「すべての人を照らすまことの光」は、当時のユダヤの民だけでなく、全人類にもおよぶ光だからです。「すべての人を照らす」その本来の意味からすると、範囲や、時代を限定するはずがありません。

ここで思い切って、2つの視点を2つの線に置き換えてみましょう。歴史の中のある瞬間を表すのに縦の線を使うことにします。全人類に広がる救いの計画の始まりを横の線で表すことにします。すると、イエスの誕生は、縦の線と、横の線が重なった場所で起こったということです。縦の線と、横の線、何かを思い付かないでしょうか。私は、イエスの最後の場面、十字架上の出来事を思い出します。

そうです。イエスの誕生は2つの視点の重なる場所で起こり、それは全生涯のクライマックスとも言える十字架上の出来事を予感させる出来事でもあったのです。私たちは歴史のある瞬間に起こり、しかもすべての時代と人に関わる大切な場面を世界中で祝っています。
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‥次の説教は‥‥
聖家族
(マタイ2:13-15,19-23)
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