主日の福音07/12/24(No.332)
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
今こそ救い主を迎えに出なさい

主の降誕おめでとうございます。今年の降誕の喜びを、1つの姿に示してみたいと思います。それは、10人のおとめのたとえです。たとえをかいつまんで紹介すると、花婿を迎える10人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行きます。 そのうちの5人は愚かで、5人は賢いおとめでした。

愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたが、油の用意をしていませんでした。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていました。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がすると、用意のできている賢い5人のおとめは、花婿と一緒に婚宴の席に入っていったというものです。

私は、この賢い5人のおとめを2通りに当てはめて考えてみました。1つは、救い主の母となったマリアです。もう1つは、私たちです。マリアは、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声を聞いた賢いおとめのように、ともし火に油を用意して、救い主をお迎えする万全の準備をととのえてこの日に臨みました。

マリアは、お腹に宿した子が、男の子であり、聖霊によって身ごもっていること以外は、何も知らされてなかったのですが、それでも神に完全に信頼を寄せてその時を迎えようとしていました。お産のその時、救い主を待ち望む人々はそばにいませんでしたが、マリアとヨセフだけは、賢いおとめのように、準備を怠らずにいたのです。

実は私たちも、賢いおとめに加えてもらう人々だと思います。なぜなら、待降節を通して、救い主をお迎えする準備を着実に進めてきたからです。それはクリスマスの飾り付けであったり、クリスマス前のゆるしの秘跡であったり、またクリスマスのための聖歌の練習だったり、聖劇の練習などを通してです。私たちは救い主を迎えるために、目に見えない内面の準備と目に見える外的な準備とで、器であるともし火と、火をともす油の両方を準備したのです。

ちなみに、クリスマスはせかいじゅうがこぞって祝う行事と言えます。ところが、すべての人が賢いおとめのような準備をしていたかと言うとそうではありません。外的な飾り付けは盛大に施しても、救い主を迎えようという心の準備を持っていない人があまりにも多いのです。

ともし火と、油を同時に用意している者は、救い主を出迎えるために救い主誕生の場に集います。ですが、本当のクリスマスの意義を知らない人々、ともし火があってもともし火に本当の意味を与える油を用意していない人々は、クリスマスを喜び合うために、いったいどこに集まるのでしょうか。救い主の誕生の場に集まるのでなければ、その人々は意味もなく浮かれているだけに過ぎないのです。

私たちは、賢い5人のおとめたちです。クリスマスが喜びの日であり、その喜びの源はすべての人のために救い主が生まれたことにあると知っています。どうぞこの喜びの知らせをたずさえて、生活の中に派遣されていきましょう。ともし火は、暗闇の中でこそ輝きます。まことの光、救い主が来てくださったことを、一人ひとりがともし火となって、告げ知らせることにしましょう。ともし火の油がなくならないように、この聖なるミサの中で恵みに満たされることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-5,9-14)
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