主日の福音07/12/23(No.331)
待降節第4主日(マタイ1:18-24)
神が共にいてくださるならそれで十分です

年末年始になると、頭を使う仕事が特別増えます。今日23日の「待降節第4主日」、明日24日夜の「主の降誕(夜半)」、明後日は「主の降誕(早朝)」、来週30日が「聖家族」、明けて1月1日が神の母聖マリアの祭日と、10日間で5つの説教を準備してミサの中で話さなければなりません。追いかけられるように祝日がやってくるし、追いつかれないようにしなければならない。目の前のことに集中しなければ、とても終われそうにありません。

こんな時、誰か助けてくれる人がいればいいなぁ、なんて思いますが、私が話す内容を人が書くわけにはいきません。誰かが作文したものをまるで自分が書いたかのように読み上げても、ただの挨拶に聞こえて、きっとつまらないと思います。それでもまったく助けがないかというと、そうでもなくて、私にとっては力をいただくようなことをあれこれ与えてもらいます。いくつか、紹介したいと思います。

1つは、中田神父と出会ったことのある人が、クリスマスなどに洗礼を受けることになるとか、そういう便りは大いに力になります。今年のクリスマス、私たちの小教区は大人も子どもも洗礼のチャンスは巡ってきませんでしたが、私が出会った人の中に、12月2日に洗礼を受けた人と、明日のクリスマスイブのミサで洗礼を受ける人がいます。

私は洗礼を受ける彼らのそばにいて見守ることはできませんが、心はそばにいることができると思います。同じように、出会ったその人々も、私のことを洗礼のその日に思い出してくれるのではないかなと思います。こうして、遠くにいる人であっても、年末年始の5つの説教を書く力を与えてくれる人々がいます。ありがたいことです。

次に、司祭館に差し入れをくださる方もいます。差し入れはいつもありがたいものですが、忙しくなっているときにいただく差し入れは、もう少し頑張るぞーという気になるものです。差し入れをくださる人も気にかけていなければ差し入れしようとか思い浮かばないと思います。心にかけて下さっていることの目に見えるしるしです。感謝します。

まだ出会ったことのない人から、力をいただくこともあります。土曜日に、書留が届きまして、中を開けたら心付けが入っていました。それと一緒に、お手紙も入っていました。この人は私が毎週発行している説教のメールマガジンを読んでくださっている人なのですが、「今年1年、何度も力をいただき、イエスさまへの小道(の小道)を歩ませていただきました」と書かれていました。「頑張れ、頑張れ」という言葉よりも、もっと力を与えてくれる言葉だと思います。

こうしてみると、年末年始の「あー、説教ずっと準備し続けなきゃー。ずっと書き続けなきゃー」というため息を乗り越える力は、直接誰かが説教を書いてくれるというような形ではなくて、いつでもそうですが、誰かが私のことを覚えていてくれる、心に留めて応援してくれているということだと思います。これは、小さなことでは決してなくて、大きな力なのです。

今日の福音朗読は、イエスの誕生を間近にして、ヨセフが身ごもったマリアを妻として受け入れる場面が朗読されました。ヨセフにしてみれば、いったんはひそかに縁を切ろうとまで思い詰めたことをもう一度受け入れるのは並大抵のことではなかったでしょう。マリアが人にどう思われるだろうか、産まれてくる子ども(この時点では聖霊によって宿った子どもだと理解していませんでした)が人にどう思われるだろうか、自分自身も人に何を言われるか分からない。そんなことを思えば、簡単にそれでも妻として迎えるよとは言えなかったと思います。

それを、勇気を振り絞ってすべてを神にお任せすることにしたのは、夢で主の天使が語りかけた言葉が信頼できると思ったからでしょう。ヨセフの夢に現れた天使は、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と言っています。この出来事に聖霊が働いていて、マリアとヨセフの2人に、神が共にいてくださることを理解したわけです。

朗読の後半に説明が加えられています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(1・22-23)。神が共にいてくださることを、ヨセフは何よりも自分の勇気の源にしたのです。

おそらく、ヨセフにはほかに応援してくれる人はいなかったかも知れません。ヘロデの手を逃れてエジプトに移り、戻ってからもガリラヤのナザレに引きこもりました。見ず知らずの人ばかりの中に住んだのかも知れません。それでも、ヨセフはマリアとイエスを命がけで守り、養いました。神が共にいてくださるという確信は、すべての恐れを乗り越えるのに十分だったのです。

私たちも、間近にイエスの誕生を迎えようとしています。主の天使は、幼子の誕生に当たって、「この子は自分の民を罪から救うからである」と知らせました。私たちは身近な場所で事件や事故、災難を見聞きしたり、自分の生活を脅かすような不安を抱えたりしますが、誰もそばにいてくれないと思えるときでも、クリスマスの出来事はそれらの不安をも乗り越えさせてくれます。生まれてくる幼子が、自分の民を確かに救ってくれるからです。神が我々と共にいてくださるという約束を、私たちは聞いたからです。

ヨセフを思い出しましょう。誰も理解してくれる人がいないだろうと思われる中で、彼はマリアと生まれてくる子を受け入れました。「神は我々と共におられる」ということだけが頼りでした。私たちも、どんなにお先真っ暗に感じても、「神は我々と共におられる」この言葉に固く留まることにしましょう。私たちが幼子に寄せる信頼を、おいでになる救い主は決して裏切ることはありません。
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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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