主日の福音07/12/09(No.329)
待降節第2主日(マタイ3:1-12)
私は神を待ちます。救いは、神から来るからです

今日は映画の話から入りたいと思います。長崎駅そばに「アミュプラザ」という商業施設があります。その4階に、映画館が入っています。ここで、「マリア」という映画が今上映されているのですが、この映画、クリスマス前に観ることをお勧めしたいと思います。

映画の上映時間は1回目が10時45分から、2回目が16時からとなっています。内容は、洗礼者ヨハネの誕生とイエス・キリストの誕生、羊飼いが拝みに来て、占星術の学者たちが拝みに来て、ヘロデ王がイエスをこの世から消すためにベツレヘムにいる2歳以下の男の子を殺害するため兵を送り込む、その中で聖家族がエジプトの砂漠に逃れていく場面までです。ちょうど、このクリスマスの季節にふさわしいと思います。

映画のできばえはというと、私は良くできていたと思っています。たくさんの収穫がありました。一つは、イエスがお生まれになった場所は、ちょうど今年工夫して作り上げた馬小屋のような場所だったということです。ですから、今年の馬小屋の作り方は、今後の参考になると思っています。映画を観て、イエスの誕生の場面を焼き付けてきてほしいと思います。

また、マリアが大天使ガブリエルのお告げを受けて深く思い巡らす様子とか、ヨセフがマリアを信じてあげた勇敢な姿とか、学者たちが長い旅をいとわず本当に貧しい中に生まれた救い主を拝む姿とか、聖家族がエジプトの砂漠に逃れていく中で、神への信頼を決して失わない姿とか、深く考えさせるなぁと思ったのです。

ぜひ、映画館に行って映画を鑑賞してください。百聞は一見にしかず、私があれこれ話すよりも、実際に観て感じてもらったほうがはるかに良いと思います。今日私がこの映画をお勧めするまでに、12月8日無原罪の聖マリアの祭日が巡ってきたのも幸いなことでした。また、今週の福音朗読は洗礼者ヨハネが中心にいます。うまく教会の典礼の季節とかみ合っていると思います。待降節をよりよく過ごす一つの方法として、可能な限り映画鑑賞に出かけてください。

さて私たちは待降節、イエスを待つ季節にいます。あらためて、「救い主を待つ」のはなぜか、この機会に考えてみましょう。それは、イエスがおいでになって、救ってくださるからです。人間の救いは、人間の努力で成し遂げられるのではなくて、救い主を待ち、救い主に身を委ねるから成し遂げられるのです。人間の努力で救いを勝ち取れるのなら、イエスを待つ必要がどこにあるでしょうか。

映画「マリア」の中でも、マリアは救い主がおいでになるのを心の底から待ち望む1人でした。そして、思いがけず自分がそのために選ばれたことで、人間の思いではなく、神の思いに自分を委ねる勇気が求められたのです。どうして私が、それに私は男の人を知らないのにと、考えれば考えるほど分からなくなりそうですが、マリアは神の思いにすべてを委ねることにしたのでした。

ここに、神が計画された不思議が横たわっています。人が正しいと認められるのは、自分の努力ではなくて、神のあわれみによるのです。それなのに私たちは、「わたしはこんなに一生懸命働いて、いやなことも耐えて、ゆるせない人までゆるしているのに、どうして神は報いてくださらないのだろうか」と考えてしまいます。理不尽な仕打ち、不当な扱い。すべて良かれと思って耐えてきたのに、どうして人は私を理解してくれないのですかと。

実はすべての人は、徹底的に砕かれる必要があるのです。一人の例外もなく、「徹底的に」です。朗読福音に登場してくるファリサイ派の人々も、サドカイ派の人々も、正しいと認められることはすべて行い、誰にも指をさされないほどの厳しい生活をした上で、洗礼も受ければ皆の前で賞賛を受けると思っていたのかも知れません。けれども洗礼者ヨハネは、「あなたの努力で救われようとどこまで頑張ってもダメです。神の前に砕かれて、身を委ねなさい」としか言わないのです。

正しい生活のほうがいいに決まっています。どんな仕打ちをも耐え、殉教者と変わらない苦難を忍ぶ人を、神が見過ごすはずはないのです。けれども、「最後にわたしが救われるのは、自分を捨て、神に身を委ねるからだ」そのことが分からなければ、あるいは分かるまで徹底的に砕かれなければ、人が救い主を待つその深い意味を悟ることはできないのです。

イエスに身を委ねるために、私たちは救い主の誕生を待っています。おいでくださる方が救ってくださるから、御子を待つのです。それなのにまだ自分の努力や忍耐が御子イエスの到来よりも優れて意味があると考えているなら、この季節を徹底的に砕かれる季節として過ごしていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(マタイ3:13-17)
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