主日の福音07/12/02(No.328)
待降節第1主日(マタイ24:37-44)
主の到来は決定的な喜びをもたらします

待降節を迎えました。主の到来を待ち望む季節です。幼子イエスとしてやって来るのを待つのと、キリストの再臨を待つ、この両方の意味合いで待降節を過ごしましょう。はじめに、朗読された福音を読み返してみましょう。

今日の朗読福音は、「人の子が来る」で囲い込まれている前半と、「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」で囲い込まれている後半部分とに分けることができます。前半は、主がおいでになるときには必ず善悪の裁きがおこなわれるという内容です。ですから、「キリストの再臨」に向けて私たちの心を備えさせます。

日々の暮らしの中で、いつかは善悪の裁きがはっきりくだることを私たちは覚悟しておかなければなりません。一人残らず、私たちは神の裁きにかけられるのです。怠惰な生活や、むなしい事柄に時間を費やしてはいけません。

次に、「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」と促す後半は、間近に迫っている到来に私たちの心を向けます。「いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からない」とありますが、準備を急ぐようにということのたとえです。そうであれば、後半の用意は、幼子イエスの到来を準備するということです。

両方をまとめると、人の子の到来の時には、2つのことが起こるということになります。1つは、人の子の到来で「想像以上のことが」起こるということです。朗読の前半、ノアの洪水がこれにあてはまります。

もう1つは、「思いがけないときに」やって来るということです。後半の部分ではっきり示されています。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(24・44)。この両方をまとめると、人の子がおいでになるときには、「思いがけないときに」「想像以上のことが」起こるということになります。そこでは、何かしらの準備が必要なのではないでしょうか。

思いがけないことというものはあるものです。最近のことですが、郵貯銀行の通帳で、把握していない通帳がひょっこり出て来ました。会計係に確認してもらって、結果を聞いて私はにっこりしました。思いがけないことってあるものです。

生きている中での思いがけないことと言えば、成人式の時を思い出します。私は成人式を、福岡とふるさとの五島の両方で受けました。そして考えられないような体験を両方の成人式で味わいました。

福岡での成人式の時、案内状には福岡サンパレスの会場に午後1時集合となっていました。福岡の大神学生だった私は、同級生みんなでちゃんこ料理を食べ、生ビールをたくさん飲んで、フラフラになって会場に滑り込みました。

酔っていたので式典のことはほとんど覚えていませんが、森田公一、キャンディーズがゲストとして呼ばれていたのは覚えています。式典が進み、新成人の誓いを表明するというときに、名前を聞いて驚きました。司会者の人が、「それでは、新成人を代表しまして、なかだこうじさんに新成人の誓いを披露してもらいます」と言っているのです。

私は腰を抜かしました。そんなの聞いてないよー、という気持ちでした。それでも何か言わなければと思って、ぐるぐる回る頭で必死に一言ひねり出した頃に、壇上では知らない男女一組の新成人が、挨拶をしていたのです。「なーんだ。同姓同名か」。一気に酔いが覚めました。この体験で私は、「思いがけないときに」「想像以上のことが」起こりうるのだということを知りました。

ついでの話ですが、五島での成人式でも、「名前を呼ばれたらその場で起立してください」というので、「なかだこうじさん」と言われて立ち上がってみたら、ここでも同姓同名がいて、私は別の「なかだこうじさん」の呼び出しの時に立ち上がり、同じ小学校卒業の仲間に「座れ。わいじゃなか」と座らされて大恥かきました。

さて、間近に迫っている幼子イエスの到来は、「思いがけないときに」何か「想像以上のことを」引き起こすのでしょうか。私たちが知っているイエスの到来は、一見すると何も特別なことはないように思えます。飼い葉桶に眠る幼子、マリアとヨセフが幼子のそばにいて、羊飼いたちが最初に幼子イエスを礼拝に来る。あるいは星の導きがあり、占星術の学者たちが拝みに来ます。だれもがはっきりその様子を描くことができます。何か、「思いがけないこと」「想像以上のこと」がそこにあるのでしょうか。

2つ、示しておきたいと思います。1つは、私たちが心から、救い主誕生の準備をすれば、幼子イエスは私の人生に消えない喜びを与えてくださるということです。まもなく幼子としてこの世においでになりますが、この救い主はやがてご計画のすべてをなし遂げて、私たちに永遠の命を与えてくださるのです。私たちはしばしば幼子が誕生したことだけに目を取られていますが、幼子の誕生は私の中で始まる消えない喜びのごく最初の出来事なのです。

もう1つは、救い主は幼子としてマリアからお生まれになります。このことは、救い主が人としての誕生から、人生の最後まで−−イエスの場合は十字架上の死に至るまでということですが−−この世に関わりを持ってくださるということです。見方を変えると、人生の始まりから終わりまでが、救い主イエス・キリストによって関係づけられたと言うことです。

救い主が、もしも大人の姿で突然現れたら、人の若い時代は、神の子イエス・キリストとつながっていなかったかも知れないのです。神は、人間の人生全体が三位一体の神と結び合わされたのだということを、イエス・キリストをとおして示してくださいました。あの馬小屋の中で、実は想像以上の出来事が繰り広げられているのです。

イエスが幼子として、また再臨の主としておいでになるのは、決して失わない喜びをもたらすため、また人生のすべてに関わりを持ってくださるためです。待降節を通じて、思いがけないときに想像以上のものを届けようとしている父なる神の計画に期待しましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
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