主日の福音07/11/25(No.327)
王であるキリスト(ルカ23:35-43)
十字架上のイエスに王の姿を見つけました

今週は「王であるキリスト」の祭日、典礼暦では一年の最後の日曜日です。「王」ということについて考えてみましょう。みなさんは「王」という言葉に、どんなイメージを重ねるのでしょうか。

「王」は何かしらの権威を持っている存在です。イエスを十字架に付けることに加担した総督ピラトは、みずからの権限をこう主張しています。「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」(ヨハネ19・10)。ユダヤには「ヘロデ王」がいて、「総督ピラト」は厳密には王ではありませんが、王のような振る舞いをしています。

ところでイエスはどのような権威をもってご自分が王であることを世に示したのでしょうか。イエスはこの世の支配者が好むような権力を振るう王ではありませんでした。むしろ、はりつけにされた十字架の上で、王であるイエスの姿が発揮されています。

犯罪人の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)と言ったとき、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)と言いました。イエスは、犯罪人の一人を、ほんのわずかの時間で楽園と結び付けてくださったのです。こんな恵み深いわざをなしとげる権威を持っているイエスは、確かに王なのではないでしょうか。

地上の王は、私たち人間を自分の王国に住まわせることはできても、神の国に住まわせる力は持っていません。一方イエスは、人類を、神の国に結び付け、住まわせてくださいます。例えばそれは、審判の場面に登場する王の姿です。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25:34-36)。

私たちがイエスを王として受け入れるなら、王であるイエスは私たちが神の国で住まう席を用意してくださいます。ヨハネ福音書に次のように記されています。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」

りっぱな王は、国民の配慮を怠りません。王であるイエスは、私たちをご自分の民として受け入れてくださり、私たちが神の国の住人となれるように、天と地を結びつけ、国を受け継ぐことができるようにしてくださり、場所を用意してくださるのです。それも、決して奪われることのない、永遠に続く住まいを用意してくださいます。

ところでイエスは、ご自分の王権をこの世の王のように見せびらかすのでしょうか。王権をことさら誇示し、強さを見せつけたりするのでしょうか。実際はその反対の態度をこの地上では貫きました。権威がはぎ取られた場面で、むしろイエスはご自分が王であることを証明します。すべてがはぎ取られた場所、つまり十字架上に、イエスの真の王としての姿が示されていました。

十字架は、神と人類を結び合わせ、人類全体を一致へと向かわせる神秘の道具です。そこには華やかさも輝きもありませんが、神の国を完成させる王であるキリストがおられます。この世の繁栄を選ぶことなく、命がけで人類を神の国の国民とするために十字架に留まってくださったのです。

十字架上のイエスをずっと説き続けた司教さまが福岡教区にいました。平田三郎司教さまです。今年の夏に亡くなりましたが、この司教さまは生前どこに行っても「十字架の縦の線と横の線」という説教を繰り返していました。

今振り返ってみれば、「神と人類との一致のしるし」「人類すべての一致のしるし」という意味深い話をしておられたのかなと思います。十字架は人類を神の国の国民とする道具であり、人類すべてを神の国の同じ国民とする道具であると、亡くなった老司教は説教の中で語りかけていたのかも知れません。

私たちは、王の民であるならば、王の望みに忠実であるべきです。その1つは、王であるキリストのもとに留まり、離れないことです。罪を犯す人は王に背を向け、国に留まることができなくなってしまいます。もう1つは、王であるキリストを言葉や行いでより多くの人に知らせるということです。全人類が王であるキリストに導かれ、一つの国民となれるように、私たちはできることをしなければなりません。

典礼の暦が来週から新しい年に変わります。この一年、私たちが神の国の住人として何ができたか、振り返ることにしましょう。そして新しい教会の一年に、今年できなかったことに取り組むことができるように、恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第一主日
(マタイ24:37-44)
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