主日の福音07/11/11(No.325)
年間第32主日(ルカ20:27-38)
復活への希望は信仰の物差しでしかはかれません

「復活」の姿を描くことは大変難しいと思います。「めとることも嫁ぐこともない」(20・35)「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(20・36)こうしたイエスの言葉から私がつかんだことは、「決して滅びない者となる」ということかなあと考えました。

サドカイ派の人々は、ややこしい問題を持ち込んでイエスに詰め寄ってきました。「七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(20・29-33)。

サドカイ派の人々の考えによると、男性が妻をめとり、跡継ぎを残すのは、「滅びないための知恵」と言えるかも知れません。子供を残さないで死ぬことは、「家系が絶えること」「その家系が存在しなくなること」となり、「滅びる」というとらえ方になっていたのでしょう。この考えは当時多くの人々が同じように考えていたと思われます。

さてこのややこしい問題は解決できるでしょうかと尋ねているわけですが、サドカイ派の人々の本心は、解決できるかどうかは興味が無くて、イエスを困らせることだけが目的だったのかも知れません。

サドカイ派の人々の質問は、どこか「滅びへの恐れ」が感じられます。これに対し、イエスはご自身復活し、信じる者を復活の命に招く方です。この復活を信じるということは、「わたしは、イエスに招かれて滅びない命にあずかるのだ」と信じることではないでしょうか。イエスの招きを信じるということは、人を恐れから解放する力を持っています。

「滅びない命」。私たちにはそれがどんな姿なのか分かりませんが、次のことは想像できます。それは、肉体の死も、火葬して墓に納骨されることも、滅びに向かっているのではなく、「滅びない命への希望」に召されているということです。希望に召されていると考えるとき、墓に眠る人々は復活のその時を希望を持って眠っていることになります。

私たちはあるとき、胸を引き裂かれるような思いで家族と離れなければならない場合があります。心の準備を与えられないまま、あっという間にこの世を去っていく方がいます。最後が近づいていることは知らされていたけれども、お別れを言えずに去っていく方もいます。人々に忘れられ、誰にさよならを言うこともなく孤独のうちに去っていく方もいます。突然の死は、残された家族を混乱におとしいれかねません。

どうしてと思うようなお別れをしなければならない時、人間が頼りにしていたものは無力です。あと少しくらいの時間はあるだろうとか、今回までは持ちこたえられるだろうとか、当てにしていたものがほとんど当てにならないことを私たちは嫌というほど経験しています。

それでも、すべての人を復活の希望に招くイエスに信頼を寄せるなら、自分たちのもとを去っていく家族について、悲しみだけではなく平安と慰めを得ることができるでしょう。なぜなら、私たちのもとを去っていくこの人は、滅びに委ねられたのではなくて、「滅びない命」に招かれたからです。

私たちは、2つの物差しを持っているのだと思います。1つはこの世の物差しで、時間の長さや多いか少ないかなどをはかるものです。この世の物差しは、長く生きたかたくさんの業績を残したかをはかることはできますが、それだけが人の一生をはかるものではないと思います。

もう1つの物差しがあります。それは信仰の物差しです。人の一生を、信仰の目で見て判断する物差しです。この人は神を愛していた人か、神に信頼を置いていた人か、それは時間の長さや多い少ないでははかれない部分です。

この信仰の物差しで人の一生をはかるとき、復活を信じていた人だったと判断できる人は幸せだと思います。なぜなら、復活を信じる人は、たとえこの世で辛い別れをしても、希望を奪われることがないのです。それは、神さまのもとへ旅立っていく本人、その人を神さまに送り出す家族、両方にあてはまります。

私たちの物差しに狂いはないでしょうか。この世の物差しに多少狂いがあっても致命的な害は受けませんが、信仰の物差しに狂いがあってはいけないと思います。私たちは、滅びない命への希望を持っている。復活への希望がある。だから神を愛し、隣人を自分のように愛していくのだ。この信仰の物差しにしっかり留まって、日々を生きていくことにいたしましょう。
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(ルカ21:5-9)
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