主日の福音07/11/04(No.324)
年間第31主日(ルカ19:1-10)
イエスの呼びかけにすぐ応えられますか
今週の福音朗読を読みながら私の心に響いたのは、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」(19・5)というイエスの呼びかけです。イエスは、「ザアカイ、あなたの家に泊まりたい」とだけ言ったのではなく、「降りて来る」ことを求めました。
ザアカイは背が低くて、イエスがどんな人かを見ようとして木に登ったのでした。もしイエスに「急いで降りて来なさい」と言われなかったら、ザアカイはイエスがどんな人かを見ようとしていた目的は果たされたのですから、そのまますれ違って出会いはなかったかも知れません。まずはイエスが声をかけてくださったので、イエスとザアカイとは出会うことができました。
もう一つ、この出会いに必要なことがあります。それは、ザアカイのほうも「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(19・6)ということです。ザアカイにも、「声がかかったら、すぐに応えよう」という気持ちがあったということです。木の上にザアカイはいたのですから、ザアカイが動き出さなければ出会うことは不可能でした。
さて今日私たちの教会は、小教区の亡くなったすべての人のために追悼のミサを捧げる日曜日です。この日にザアカイの物語が朗読されたことはすばらしいなぁと思っています。なぜかと言うと、木に登って動くことのできないザアカイと、今墓に眠っている人々とは、置かれている立場が似ていると思ったからです。
ザアカイはイエスの声一つですぐに木から降りてきました。墓に眠る人々も、今はまったく動くことができませんが、イエスの声一つで、復活の日には呼び覚まされる希望を持っているからです。実際イエスはラザロが墓に眠っていたときに「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)と大声で叫び、ラザロを呼び覚ましたことがありました。ラザロは「手と足を布で巻かれたまま出て来た」(ヨハネ11・44)、つまり急いで墓から出てきたのです。
私は、墓で眠っている人はイエスの一声を今静かに待っている人たちなのだと思っています。墓に治められて眠っていますが、イエスの声がかかれば、ザアカイがすぐに木から降りたように、いつでもイエスの声に応えて出会う準備をしている人たちです。復活の日を待って、ちゃんと準備している人たちです。
イエスの声があれば、すぐに行動できる人は幸せだと思います。今日の福音朗読に登場したザアカイは、木から降りてくるように言われてすぐに降りて来ました。墓に眠っていたラザロは、「ラザロ、出て来なさい」と言われて巻かれていた布もそのままにして墓から出て来ました。そして私たちの先祖、先に墓に眠っている人々も、イエスの一声さえあれば、復活してイエスと出会う準備ができているのです。
ここまで話を聞いて、今地上で生きている私たちには何が求められているのでしょうか。準備が求められているのだと思います。イエスに何かしら声をかけられたとき、時を置かずすぐに応える準備が必要だと思います。「持ち帰って検討します」というような悠長な態度ではいけません。声をかけられたとき、すぐに返事ができるようにしておかなければならないと思います。
では、イエスは私たちにどのような声をかけるのでしょうか。人によってさまざまだと思いますが、例えば、「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8・8)であったり、「わたしに従いなさい」(マタイ9・9)であったりします。イエスに声がかかったとき、すぐに聞いて実行する人であろうと心がけているでしょうか。またイエスに従っていく決意をふだんから持ち合わせているでしょうか。私たちは今日、このことが問われていると思います。
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えました。ここで墓に眠っている人々は、復活の時のイエスの号令を今か今かと待っています。遅れることなく呼びかけに応える準備ができている人々です。私も同じように、生活の中で準備しているでしょうか。
私たちはこの世界で生きているときに、周りの人からのいろんな求めに応える必要があります。ある人は頼まれたことにすぐに応えてくれます。この世の求めにすぐに応じる知恵を持っているのに、なぜイエスの声にはすぐに応えられないのでしょうか。いつでも応えようという準備を、日頃から怠ってはいけないと思います。
イエスの呼びかけに、あなたはすぐに応えることができますか。2千年前のザアカイも、今墓に眠る私たちの先祖たちも、準備ができているか、私たちに問いかけているのではないでしょうか。
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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(ルカ20:27-38)
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