主日の福音07/10/21(No.322)
年間第29主日(ルカ18:1-8)
聖霊体験で私たちはイエスをより深く知る

今週は、朗読された福音の結論部分を考えてみたいと思います。イエスはこう言いました。「(まして)神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる(18・7-8)。イエスは昼も夜も叫び求める人に答えてくださる、しかも速やかに答えてくださると言います。

まずは昼も夜も叫び求めることが必要ですが、たまたま私は聖書朗読について、最近ずっと考え続けておりまして、いったいどうやったら信者の皆さんはうまく聖書朗読ができるようになるだろうか、そういうことを昼も夜も考え続けておりました。

「神さま、いったいどうやったらうまくいくのですか」。叫びにも似た思いで答えを求めていたのです。ようやく、一つの答えにたどり着きました。神は速やかに、答えてくださいました。今日はそれを分かち合ってみたいと思います。

皆さんのうち多くの人は、朗読台に向かう、それだけでもう緊張して上手に読めないと感じている人が多いのではないかと思います。なぜ緊張するのか、どうしたらうまくいくのか、突き詰めて考えてみたことがあるでしょうか。

第一の、そして最大の理由は、(たくさんの)人の前に立っているということだと思います。(たくさんの)人の前で読む機会が滅多にないので、緊張の原因になっているのでしょう。反対に、誰もいなければ、どんなに緊張するという人でもうまく読めるのではないでしょうか。「誰もいないのであれば、わたしでも読めるかもしれない」そう思っている人が今おられるかも知れません。

私の思い込みだけで話をしても納得してもらえないでしょうから、ある人に協力してもらって実験してみました。ある時この人に聖書朗読について尋ねたところ、こんなふうに言われたことがあります。「ミサの聖書朗読なんてとんでもありません。あんな場所に立って朗読すると想像しただけでも心臓が飛び出しそうです。」

ところが、それほど怖がっていたのに、試しに聖堂に1人だけにして朗読をさせると何とか朗読することができたのです。ちなみに、私が聞き手になって座っても意外なほどに落ち着いて読むことができました。「誰もいなければ、あるいはほとんど人がいなければ、上手に聖書を読むことができる。」この仮説は実験である程度証明されました。

ただし、実際に朗読するのは多くの参列者を前にしてです。聖書は神のことばを民衆に読み聞かせるという目的があるのですから、人がいない中で読んでもほとんど意味がありません。聖書朗読をひどく恐れる人であっても、誰もいないときには立派に読むことができた。この経験を実際の聖書朗読に何とか活かせないものか。考えてみました。

実験に協力してくれた人は、人が集まっていると意識しない程度なら、十分に朗読することができていました。ミサに大勢の人が集まって、みんなが自分を見ている、みんなが耳を澄ませて聞いていると思ってしまうので、苦手な人は舞い上がってしまってうまく朗読できなくなるということです。

そうなると、やはり誰もいないような場面でしか苦手な人はうまく読めないということになります。それでは先ほどから言っているように、聖書朗読の意味を為さないのです。何とかして、誰もいない雰囲気を作ってあげれば、聖書朗読を恐れる人にも朗読ができるのではないでしょうか。

問題の原因を平面的に考えても、いつまでたっても問題は解決しないだろうと思います。聖書朗読を恐れる人は、同じ場所に自分に耳を澄ませている人がいると感じると落ち着いて読むことができなくなるのです。そうであれば、問題を取り除くために、平面的に考えるのではなく、立体的に考える必要があると思います。

つまりこういうことです。朗読する人は、地下1階にいて聖書朗読をしていると考えるのです。そして朗読を聞いている参列者は地上1階にいて耳を傾けている。こう考えるとうまく解決できるのではないでしょうか。

参列者は皆地上1階にいて、朗読する私は地下1階にいる。そう思えば、たとえ地上1階に50人いようが1000人いようが、まったく気にする必要はなくなります。朗読者は、地下1階で、1人で朗読していると思えばよいのです。

これが、中田神父が今週昼も夜も神さまに叫び続け、答えをいただいた聖書朗読のコツです。聖書朗読に立ちはだかる困難を平面的に考えるのではなく、立体的に考えること。こうすることで今までどうしても取り除けなかった恐怖を克服することができるのではないでしょうか。

ところで、現実問題として教会は立体的な建物ではありません。地下1階などありません。考え方としては画期的でも、実行できないのであれば机上の空論になってしまいます。せっかくここまで考えたのに実行できないのでは神さまからの答えになっていません。神さまが示してくださった答えには、もう少し続きがありました。

地下1階がなくても、地下に潜ればよいのです。地下の、誰もいない場所に朗読する人が潜ることができれば、問題は解決すると思います。具体的には、自分が朗読しようとしている箇所に、深く潜るようにすること。これが、地下1階で朗読するコツだと思います。

例を挙げてもう少し具体的に説明しましょう、今週の第2朗読はパウロがテモテに宛てて書いた手紙です。この手紙を朗読するとき、ミサに来ているみんなに読んで聞かせようと思わないで、あなたはテモテになったつもりで手紙を読めばよいのです。「[愛する者よ、]自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(3・14)。

みんなに読んで聞かせようとすれば、あなたはパウロのつもりで読むことになりますが、それでは相当荷が重いと思います。そうではなく、パウロが私に手紙を書いていると思って、読むのです。あなたはふだん、手紙をもらうことがあるでしょう。その手紙を、自分1人で読むつもりで、読んだらよいのです。ただ1つだけ、ゆっくり、はっきり読んでくだされば、それで十分だと思います。

これが、与えられた朗読箇所の中に深く潜っていくということです。みんなに読んで聞かせようと思わないことです。お願いされた朗読箇所に深く潜り、自分の家に、アパートに届いた手紙を1人で読んでいると思って朗読台に立つと、きっとうまくいくと思います。お試しください。

朗読する人は、やはりどうしても人前に立つので目立ってしまいます。みんなを前にしているとことさら考えると失敗してしまいます。人前に立っているのではなく、むしろ神の前に自分の存在を示すためには、矛盾しているようですが、神への思いに沈潜していく必要があります。聖書朗読をしているときであれば、頼まれた聖書の箇所に深く潜っていく必要があるのです。

ですから朗読の声も、大声を出すのではありません。かえって沈黙するのです。「みんなに聞こえるように声を張り上げなきゃ」とか、「ひっかからないようにすらすら読まなきゃ」というようないっさいの雑音を自分の心から閉め出し、ただ自分に宛てられた手紙がよく理解できるように読もうと心がけるとき、神はいち早く私を見いだして必要に答え、力を貸してくださるのです。
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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(ルカ18:9-14)
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