主日の福音07/09/30(No.319)
年間第26主日(ルカ16:19-31)
188殉教者は神のもとで慰められる生き方を証しします
昨日9月29日、大変喜ばしい記者会見の場に立ち会うことができました。ペトロ岐部と187殉教者の列福式の正式発表です。夜のローカルニュースや今朝の新聞、あるいは朝のニュースで目にした人もいるかも知れません。来年の11月24日に、長崎で列福式が行われることが正式に決まりました。
記者会見に参加して、2つのことを思いました。1つは、日本人の数多くの殉教者の生き方が、公の場で尊敬される日がようやく来るという安堵感、もう1つは、この記者会見の呼びかけにテレビ局3社、新聞雑誌など9社、カトリック教会の雑誌社が2社、合計14社の報道関係の方々が集まってくれたことです。400年前の殉教者が現代に届けようとしているメッセージは、十分に人々を引きつけ、心を動かすことができると感じました。
昨日の列福式正式発表を、今週の福音朗読に結び付けてみたいと思います。188人の殉教者は、この世で迫害を受けた人々です。それは、福音朗読にあてられている「金持ちとラザロ」のたとえの中の「ラザロ」にあてはまると思います。次の箇所がそのことを物語っています。
「アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ』」(16・25)。
殉教者は、受けた迫害によって今は慰められています。まるで、今週の物語のラザロのようです。そこで、今週は188殉教者の中の有馬で殉教したディエゴ林田少年のエピソードを紹介して、神のもとで喜び楽しむために私たちは何が必要かを学ぶことに致しましょう。
今から読み上げる内容は、今年の2月4日から11日までの8日間に設けられた「殉教者を想い、ともに祈る週間」のために準備されたパンフレットの、第6日目の内容1613年10月7目、長崎の島原半島、有馬川の中州で、3家族8人が柱に縛られ、火あぶりにされて殉教しました。
有馬の教会には、信者たちの信仰生活を助けるために、「サンタマリアの組」、「ご聖体の組」、「ミゼリコルディアの組」などが組織されていました。1612年、有馬で迫害が始まると信者たちは城下町に新しい組、「殉教の組」を結成しました。これは殉教できるよう祈り、苦行をもって神のおん助けを求める信心会でした。
この大人の模範に倣って少年たちも「子どもの殉教の組」をつくり、大人に負けないほどの熱心さで祈り、苦行に励んでいました。12歳のディエゴ林田少年は、このとき、有馬の「子どもの殉教の組」のかしらでした。彼は、仲間とともに殉教の恵みを受けるために祈り、組の集まりでは皆を導き、ともに苦行に励んでいました。
殉教までの記録は、素朴なこころの少年が、精神的には立派な大人に成長していたことを伝えています。有馬の信者たちが殉教に立ち合おうと集まってきて、捕われた人びとをすでに殉教者としてその取次ぎを求めると、ディエゴ少年は、「死ぬ前にその名はふさわしくありません。でもその名前をいただくのはうれしいことです」と言いました。
そして、「まだまだ。まずオラショ(祈り)を頼みます」と、皆の祈りに支えられることを願ったのです。オルファネル神父はディエゴ少年のこのことばを日本語のまま記録しています。
ディエゴ少年のこれらのことばは、長崎の潜伏キリシタンが殉教の心得として伝えてきたことを思い起こさせます。「殉教とは死ぬこと、殉教は神からの恵みであること、人は皆弱いので、殉教のとき力を与えられるよう、普段からいつも祈りと苦行に努めること」などです。
処刑が、日之江城の前を流れて有明海に注ぐ有馬川の中州で行われることを知った信者たちは、ろうそくとロザリオをもって集まり、川の両岸で祈りながら見守っていました。
川を渡るとき、一人の役人が12歳のディエゴ少年を背負って渡ろうとしましたが、「歩かせてください。イエス様はカルワリオ山へ歩いて行かれました」と、それを断りました。十字架の苦難を経て栄光へと変えられる救いの神秘を、神様は幼い子どもに示しておられたのでしょうか。
殉教がイエスに導かれる至福への道であると、彼らは信じていました。パライソ(天国)でイエスとともに永遠の幸せが待っていることを教えられ疑うことなく信じていました。だから、イエスがなさったように、少年も歩くことを選びました。
父レオ林田助右衛門、母マルタ、姉マグダレナ、そしてディエゴ少年は、それぞれの柱に縛られ薪に火がつけられました。「聖少年ジャコベ(ディエゴ)の両手をくくった縄も焼かれた。火が襦袢や下ばきや髪の毛に移ると、イエスの官美な御名を唱えながら母のもとに駆け寄った。すると母が天を仰ぐようにいい、そこで少年は母の傍らで魂を創造主の御手に委ねた」と、殉教報告に記されています。
姉のマググレナは綱が焼け落ちるとひざまずき、足元の燃える薪を手にとって頭上にかざしました。こうして、燃え尽きることのない信仰と感謝のしるしを示すと、力尽きて静かに横たわったのです。
有馬の教会の最初のあかしは、神が信仰の神秘を「幼子のような者にお示しになった」ことを示して、それによって、教会がイエスとともに喜びにあふれて感謝することを教えています。
「金持ちとラザロ」のたとえに登場するラザロとディエゴ林田少年との違いは、殉教者である少年は迫害を受けているときにすでに神のもとでの慰めを確信して疑わなかったということです。私たちには188人の模範がすでに与えられています。必ず顔と顔を合わせてお会いする神のもとで慰めを受ける生き方を、私の生活のどの部分で積み上げていくのか、考えてみることにしましょう。
最後に、188殉教者についての最新の手引きがカトリック中央協議会から出ました。各家庭各世帯に1冊ずつお配りしますので、ぜひよく読んで、たとえこの世で良いものを受けなくても、神のもとで慰められる生き方のコツをこの本の中から見つけ出してほしいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(ルカ17:5-10)
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