主日の福音07/09/16(No.317)
年間第24主日(ルカ15:1-32)
見失ったものは、最上の喜びであるイエス・キリストです

私は、ようやく手に入れた物でさえもすぐに見失ってしまい、探した挙げ句にもう一度買い直すという情けない経験を何度かしています。その私が「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」のたとえを語るのは本来ふさわしくないのです。

なぜ、「見失った1匹、1枚の銀貨、放蕩の限りを尽くした息子」が持ち主にとって、また息子の父親にとってそれほど大切なのでしょうか。兄からさんざんなじられたあの弟を、父親は縁を切るのではなく、ゆるして受け入れてくれるのはなぜなのでしょう。

それは、見失ったものがどれも、「神の独り子、イエス・キリスト」だからではないでしょうか。3つのたとえのうち先の2つのたとえの中で、悔い改める1人の罪人について大きな喜びが天にあると言います。ここで言う罪人は、まったく似ても似つかないように思えますが、「神の独り子、イエス・キリスト」なのではないでしょうか。

そのことをはっきり示すのが今日の3つめのたとえ「放蕩息子のたとえ」に出てくる「下の息子」です。この下の息子は、たとえとしては父親から分配してもらった財産を無駄遣いしてあわれな姿となり、父親の元に戻ってゆるしを願ったわけですが、これは、父なる神にゆるしを願う独り子イエス・キリストを象徴しているのです。

イエスは、神の独り子として与えられている誉れや美しい身なりや、神の子としての身分もすべてはぎ取られ、十字架の上にはりつけにされて、父なる神にゆるしを願うのです。それはまさに、財産をすべて失い、着る物もボロボロになって帰ってきた放蕩息子の姿なのです。

福音書の中には、放蕩息子と言える人物が何度も登場しています。なかには回心した人もいますが、十字架上で最後までイエスをののしった犯罪人は、人生のほとんどすべてを無駄にした人です。イエスを憎み、見せかけの裁判で十字架に追いやった宗教指導者たちも、イエスの三年間の宣教活動を完全に無にしようと躍起になったのです。たとえ、回心したいと思っていたとしても、イエスにゆるしを願った犯罪人も、イエスに出会わなかったら、回心もなかったかも知れません。

人からとんでもないと切り捨てられるような人生を送った人がもしかしたらいるかも知れません。たとえ、どんな人生を送った人でも、イエスはそれらの人を含む人類すべてのためにご自分の命を渡されました。父なる神が、いわば放蕩息子である人類のために独り子を遣わし、人類の一員となって、人類すべてのゆるしを願う「救いのいけにえ」となることを受け入れてくださったのです。

神の独り子はその身分と誉れを保ったまま、あわれな姿に落ちてしまった弟のもとまで降りていくことなく、たとえ話の長男のような態度で、人類に対して非難を浴びせることも可能だったかも知れません。けれども実際は、だれも助けの手を差し伸べなかった放蕩息子の立場にまで降りてくださり、父なる神にゆるしを願ったのです。

たとえ話に登場するものはすべて「イエス・キリストの投影」なのだと思いました。「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」これらが、「大きな喜びが天にある」「祝宴を開いて楽しみ喜ぶ」となるからには、最上のものであるに違いありません。天で最上の喜びを与えるのは言うまでもなく、神の独り子と、「神の独り子に結ばれた人類すべて」であるはずだからです。
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(ルカ16:1-13)
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