主日の福音07/09/09(No.316)
年間第23主日(ルカ14:25-33)
十字架を担うことを避けないで

今日の福音朗読の中で、「もし・・ならば、わたしの弟子ではありえない」という言い回しが3回も出てきました。一つの話の中に、同じ言い回しを三回も繰り返すということは、大切な呼びかけがそこに含まれていると考えるべきです。また、ほかの方法はないよ、ほかの道はないよと強く念を押していることもこの言い回しから伝わってきます。

特に最初と二つ目は大切です。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(14・26)この言い方と、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(14・27)ということが、ほとんど同じであるかのような扱いをされています。

ですが、皆さんの中には、先の二つの中身が、ほとんど同じことを言っているなんて、にわかには信じがたいと思われる方もおられるのではないでしょうか。イエスの弟子になるために、自分の十字架を背負ってついてくる。それはそれでいいでしょう。ですが、十字架を背負ってついてくることが実は、自分の父、母、妻、子供、兄弟姉妹を背負ってくることだよと言われても、それはちょっとねぇ、と思っておられるのではないでしょうか。

自分の父、母、妻、子供、兄弟姉妹を背負って生きていくことにためらいを感じるのには理由があります。私たちの身の回り、家族、親戚を見渡すと、ときおり、あの兄弟以外はいいんだけどなあとか、あの子供のことは親として頭が痛い、そんな現実にぶつかることがあるからではないでしょうか。

あまり認めたくないかも知れませんが、迷惑をかけているある人、または、人一倍苦労させられる人が、自分の家族や親戚の中に一人や二人はいるものです。家族、親戚を誇りに思っているけれども、それはあの人を除いての話、あの人がもう少ししっかりしていれば、そう思うときに、迷惑と感じる人が重荷に感じられるわけです。

関わりたくない、そう思うわけですが、それが現実なのですから逃げたくても逃げられません。そこでイエスは私たちに「あなたが重荷と感じているその兄弟を真っ先に認めてあげなさい。あの人がいなければではなくて、あの兄弟、あの姉妹が、まずはわたしが担っていく現実です、そう心に決めなさい」と、私たちに勧めておられるわけです。

それでも私たちにはこぼしたい気持ちもあるでしょう。「わたしはあの人にさんざん苦しめられました。できれば、あの人とは関わりたくないのです」と。イエスはどう考えておられるでしょうか?

イエスはどのように答えるでしょうか。もうすでに、今の私たちに答えを残してくださいました。「わたしは、あなたたち一人ひとりを、十字架上で担いました。二千年前に、あのゴルゴタの丘で、わたしはあなたたちを担ったのです。だから、あなたたちも、父、母、妻、子供、兄弟姉妹を、担ってあげてください。あなたたちはみな、わたしに担ってもらったのだから、わたしに倣いなさい。」

「わたしたちは、これまで、自分の十字架をちゃんと担ってきましたよ」そう思っていたかも知れません。けれども、身近なところ――それは家族や、親戚の中に――「あの人とは関わりたくない」という強い思いをもっているとしたら、それこそ、イエスの真の弟子になるための妨げとなっているものなのです。

イエスは、「憎まなければ」と仰ったのですが、それは、父、母、妻、子供、兄弟姉妹のことで、関わりたくないという独りよがりな思いを、憎みなさいと言っておられるわけです。この道しか、イエスの弟子となる道はないと言っているわけです。

これまで、目の上のたんこぶとか、厄介者扱いしていた人が、家族や兄弟、親戚の中に実際にいるかも知れません。もうすでに、その人から迷惑を受けて痛みや苦しみを感じているかも知れません。イエスはそういう人に真っ先に近寄ってくださり、「大丈夫、結果を担っていくことは恐くないよ、きっとできるよ、先にわたしが、あなたを担ってあげたからね」と、励ましてくださいます。

結果を恐れて目の前の十字架を避けようとしていたかも知れません。もしそうであれば、今の自分に打ち勝って、イエスがいっしょに担っておられることを思い起こしましょう。その人を、私に与えられた十字架として担っていく。イエスが私を、本当の弟子として迎えてくださるために必ず通らなければならない道だと心得て、正面から向き合っていくことにいたしましょう。
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