主日の福音07/09/02(No.315)
年間第22主日(ルカ14:1,7-14)
神の国の宴で私を高めてくださる方

先週から賄いさんが巡礼旅行に行ってしまい、掃除、洗濯、料理、転勤してすぐの頃のように自分でしなければならなくなりました。巡礼先で坂田さんはいったいどうしているでしょうか。グループ行動にちゃんと遅れずについて行っているでしょうか。前の人の服をしっかり握って、離れずにくっついて移動しているでしょうか。もしそうだとしたら、ルルドの大聖堂も、バチカンの壮麗な聖堂も、何も目に入らずに帰ってくることになるかも知れません。

非常に良くできた賄いで、巡礼に行っている間に神父様がちゃんと食べることができるか、それが心配で出発の準備にも気持ちが入らないのですと言っておりました。「よかけん要らん心配はせんで、自分の心配だけしときなさい。わたしは坂田さんの巡礼中は、毎日海の上で暮らすけん、何も心配要らんよ」と言ったんですが、どうも心配だったようです。良くできた賄いです。

賄いがいない間に私は地元の人が「コウゴダイ」と呼んでいる魚を釣りました。全身キジハタの模様の鯛です。かなり大きくて、ビシヨマで手釣りをしていたものですから十分引きを楽しみました。仕掛けのスジを3号じゃなくて6号にしていて正解だったと思います。3号だったらやりとりに失敗して糸を切られていたかも知れません。かなり大きかったんです。お父さんたちの忠告を守ってスジを6号にして助かりました。ギーギー引きましたよ。

釣りは好調なのですが、陸に上がると頭のはげたカッパはもう手も足も出ません。洗濯物は増えるし、部屋は汚くなってくるし、台所の洗い物も減らないし、困っています。ふだんどんなに助けられているかということと、助けがなければ本当に無力だなぁと実感しています。洗濯物が消えてなくなる祈りって、祈祷書に載ってないのでしょうか?

さて、この無力感とか、非力感とかいった体験は、今日の福音を味わうために、役に立つかも知れません。人は、自分の力不足を受け入れるときに、だれかに手を貸してもらえる、助けてもらうことができます。イエスはそのあたりから私たちを案内しようとしています。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14・11)。宴会に招待されたとき、末席に座ることで面目を保つたとえは、考えをもっと先へ進めるための導入であろうと考えています。自分は、そんな大それたものではない、謙虚に末席に座ろう。そういう心構えが、招待してくれた人に取り上げてもらえて、高められることになります。たとえの中では、人間同士のあいだでの賢い振る舞いについてでした。

ただ単に、人間同士での賢い振る舞いを教えるためにイエスはこのたとえを話したのでしょうか。そうではないでしょう。もっと高いところにイエスは私たちを案内しようとしているのではないでしょうか。それは、自分が謙虚になることで、謙虚な生き方を探し求めるすべての人を取り上げてくださる神に心を向けなさいということです。私たちは、謙虚な生き方で、人に取り上げてもらってそこで満足してしまうのではなくて、最終的には、神に取り上げてもらうことをこそ願うべきだ。そんな思いを、イエスはたとえの中に込めていたのではないでしょうか。

そう考えてみると、人間の力ってたかがしれてるなぁ、人間は無力だなあといった体験が私たちの中にあることは、素晴らしいことだと思います。人間の弱さ、無力さというへりくだるきっかけを持っていることで、人は神に心を向け、神に高めてもらう生き方を求めていけるようになるからです。

私たちは、キリスト信者として、本当に報いてくださるのは神だと信じているわけですが、そうであれば、神に報いてもらうことだけを、最終的には価値のあることとして考えるべきだと思います。人生のある時期には、だれかに「さあ、もっと高いところへ」と取り上げてもらうこともあるでしょう。けれども、そういう人間同士の「偉さ」というものを越えて、神様に高めてもらう生き方を、信仰者は探し求めるべきです。人間のあいだでの誉れに目がくらんで、神に高めてもらうことを探そうとしなくなったときから、私たちの生き方は神の前には意味がないのです。

たとえ話をもう少し踏み込んで考えてみましょう。このたとえは、婚宴に招かれた中での様子でしたが、私たちの人生全体を、イエスが招待してくれた婚宴と考えることもできるのではないでしょうか。与えられた人生を終えて、私にとってこの席がふさわしいと考えていったん座ってみると、招いてくれた人から「この方に席を譲ってください」(14・9)と言われるかも知れません。人生全体を通して、神への信仰をどれくらい形にしてきたかで、自分としては神への信仰を十分形にしたつもりでも、他の人に席を譲らなければならないということも考えられます。

反対に、生活の中で信仰を形に表してきた。その結果、私はこの席に座れるかなと思って座ってみたら、招いた人が来て、「さあ、もっと上席に進んでください」と言ってもらえるかも知れません。「あなたは、生活の中で信仰を十分に形に表してきました。もっと主の近くに来て、さらに親しく主と交わることのできる席に座ってください」。与えられた人生をどう生きるかで、私たちは上席を勧めてもらえるか、末席に退かなければならないか、変わってくるのではないでしょうか。

もう一つの当てはめ方も示しておきたいと思います。それは、たとえ話の婚宴は、毎週参加しているミサと考えることもできるということです。日曜日のミサの中で聖書が3箇所朗読されています。特に福音の朗読の中で、ある表現に注意を向けて、この呼びかけは私にとっていったいどういうことだろうかと、答えが出るまで黙想してみるのです。

例えば、今週の福音朗読の後半部分では、お返しのできない人々をもてなしてあげなさいと言っています。この招きを聞いて「はいそうですか」で終わるのではなくて、私にとってお返しのできない人とは、どんな人のことだろうか、それをじっくり考えてみることです。

考えた末に、あー、こういう人のことを言っているのかなぁと思ったら、ぜひその人々のために心のこもったもてなしをしてあげてください。そうすることで、私たちはいつか宴会の席で、イエスのたとえ話がもっとよく分かる席まで、イエスが福音書の中で言おうとしていたことがもっとよく分かる席まで、「さあ、もっと上席に進んでください」(14・10)と言ってもらえるのではないでしょうか。

私は、本当に報いをくださる方(高めてくださる方)は神であることを十分わきまえて、神に取り上げてもらう生き方を日々探し求めているでしょうか。そのような生き方に価値を見いだす者となれるように、今日のミサの中で、照らしを願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(ルカ14:25-33)
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