主日の福音07/08/26(No.314)
年間第21主日(ルカ13:22-30)
たくさんの物を持って狭い戸口は通れない
今日の話は、夏の思い出という感じで話してみたいと思います。かつて中学生が15人とか20人いた教会で、黙想会というかたちで休みに入る直前の第二土曜日と日曜日に一泊黙想会をしていました。とある年度の中学生黙想会の時も、開始日の午前中、その日の夕食の買い出しをスーパーでこなしていました。
私がスーパーで買い物するといったら、釣り具コーナーで釣り餌を買うくらいのものですから、こういうまとまった買い物となると、どこに何があるのか、また15人近くの子供たちの材料の分量はどれくらいになるのか、さっぱり見当もつかないまま、適当に材料をかごに投げ込み始めたわけです。その年はカレーを作る予定でした。
当たり前のことですが、カレーの箱に5人前と書いてあれば、まあ、そのカレーを3箱買うわけです。タマネギやニンジン、ジャガイモなどの野菜も買う、お米も買う、しまいには中学生だからデザートも買わなきゃあと、次から次に買い込みまして、まあ見事な量の買い物になりました。
押し車のカートに乗せているので、レジを通るまではよかったのですが、さてこの買い物を袋に詰めて、自家用車まで運ばないといけません。あーどうしようかと思ったら、神様はちゃんとしてくださるんですね。当時の教会の顔見知りの方が手伝ってくれまして、ようやく買い物の労苦から解放されました。
15人分、時には20人分のあの買い物を、もしも最初から最後までひとりで済ませようと思えば、できないことはないでしょうけれども、きっと車に乗り込むまでに一波乱あっただろうと思います。たとえば、詰め方が悪くて買い物袋が破れるとか、出入り口を通るときに人様に触れて、迷惑をかけるとか、いちばん考えられるのは、両手に山のように抱えたままで、どうやって駐車場に置いている車のドアを開くか、考えれば心配がたくさんあったわけです。
スーパーのドアは、たいてい広い出入り口です。そんな広い出入り口ですら、こんな心配が頭をよぎるのですから、出入り口が狭かったら、どうなることでしょう?今日の福音は、そういうことを私たちに問いかけているのではないでしょうか。買い物袋を下げている姿が、今日の福音を読み解くきっかけになります。イエスが仰るように、人が救われていく戸口が、狭い戸口だとしたら、両手に荷物を抱えてなんてとても入れないのではないか。そう考えてみたのです。
両手に荷物を抱えると、荷物はしばしば横に膨らみます。これではさすがに、狭い門を通ることはできないかも知れません。イエスが、「狭い戸口から入るように」とおっしゃるのですから、少なくとも、「あれも持っていきたい、これも手放せない」と言っていては、救われるものも救われなくなるのではないでしょうか。
狭い戸口をもう少し踏み込んで考えてみましょう。イエスは、朗読箇所にある「狭い戸口」というたとえを通して、本当に言いたいことがほかにあるのではないでしょうか?イエスは、狭い戸口から入るためには、ご自身への全面的な信頼、これだけをもって戸口に近づきなさいと呼びかけておられるのではないか、そう思います。
もしかしたら、イエスのおっしゃる戸口は、人間の常識を越えた狭さかも知れません。その狭さが、両手でこじ開けでもしないと入れないような狭さだとしたらどうでしょう。そうなると、手にはもう何も持つ余裕などないはずで、ただ一つ、私はイエスを通して救われたい。あなたにすべてを託したい。この一点だけが、私たちに許される持ち物なのではないでしょうか。
この地上で、私たちはたくさんのものを手に入れたり、失ったりするでしょう。それらは、イエスのおっしゃる「狭い戸口」の前に立つときには、すべて、はかないものなのかも知れません。私は、そのはかないものと、ふだんの生活の中でどのように付き合っているのでしょうか?「詰まるところは、この世のものに過ぎないのだ」ということが、頭の中できちんと理解できているでしょうか?この点を今日私たちは問われているのだと思います。
たった一つのものだけが、この狭い戸口を通り抜ける際の持ち物です。私に必要なもの−−それは、今このときでも救いのためにかけがえのないものでもあるのですが−−イエス・キリストあなただけですと、はっきり信仰表明できるでしょうか?もう一度、自分の生活を振り返ってみたいものです。
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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
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