主日の福音07/08/19(No.313)
年間第20主日(ルカ12:49-53)
聖霊体験で私たちはイエスをより深く知る

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」。イエスの言葉は、この先、きっとビックリするようなことを話すのだろうなあと感じさせます。

私たち日本人は、火を「ものを清めたり」「不純なものを取り除いたり」「あっという間に焼き尽くしたり」するものとして、力強さやある意味での神聖さのあるものとみなしていると思います。

その、私たちが「神聖」と思っている火を、まことの意味で神聖な方、イエスがこの地上に投じると仰います。きっとそこには、何かが清められ、不純なものが取り除かれ、神聖なお方の望みに沿わないすべてのものが、あっという間に焼き尽くされるのでしょう。イエスはそのために、「火」をたとえにして話してくださったのだと思います。

私は、「イエスそのもの」が、ここで言われる「火」ではないかと思っています。目に見える火も、たしかに鉄のようなものでも溶かし、あるいは鍛え上げ、不純物を取り除くかも知れません。ですがイエスそのものは、目に見える火にさらにまさって、人間を含むすべてを清め、鍛えていくのです。

実はイエスという「火」は、人としてこの世に生まれ、十字架を通って復活されたことで、すでにこの世に投げ込まれたのです。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。イエスがおっしゃるこの「どんなに願っていることか」は、どれほど強い願いでしょうか。これ以上の願いが、考えられるでしょうか。

その火は、既に投げ込まれました。既に投げ込まれているのであれば、イエスという火は、私たちの教会の中で、燃え広がっているでしょうか。また私たち一人ひとりの中で、どうしても必要なものとそうでないものとを選び分け、取り除くために燃え続けているでしょうか。イエスの救いの働きに反対する考え方や習慣を、燃やし尽くそうと働き続けているでしょうか。イエスの救いの働きに逆らうけれども、私の中にいつまでもためておいて、燃やし尽くさずにとっておこうとしていないでしょうか。

親の過保護や、子どもの甘えによって、神が清めようとする時間を清めさせまいと抵抗したり、人の目をいちばんに気にして、信仰の話を遠ざけようとしたりしていないでしょうか?火が、既に燃えていたらと願っているところに、私たちは「この世」という名のバケツの水をかけてはいないでしょうか。

さて、日曜日は、伊王島の小中学生で宿泊学習を予定しています。今年も、朝のミサに来てラジオ体操をするぞと言っておいたのですが、かなり努力して参加してくれています。宿泊学習も含めて、夏休み中に甘えたりサボったりしたい気持ちをイエスは導き、燃やし尽くして、鍛え続けてくれていると思っています。

きっとこの子供たちは、自分たちがひと夏ずつイエスの鍛錬によって鍛えられているとは感じていないかも知れません。けれども、この小学生中学生の時期にイエスに鍛えてもらったことは、大人になったときにきっと効果が現れると思っています。朝早くからミサに参加し、祈った子供です。ふだんの学期中よりももしかしたら早起きしてイエスの鍛錬にしっかりついて行ったのですから、大人になったときに神はこの子供たちを助けてくださるに違いありません。

ただし、そういう感心な子供も「なかにはいた」ということであって、私は、もっとたくさんの子供が、イエスの内なる火によって鍛えられることを願っています。できることなら、小学生中学生全員が夏休みは毎日ミサに来て、イエスによる訓練を受けて欲しいと思っています。

私たちは皆、イエスという内なる火をいただいた者です。この火にバケツで水を掛けることなく、あるいはこの世の風に吹きさらしにせず、投げ込まれた火を大切に保つことにしましょう。移ろいゆくものはあるときは火に燃やしてしまうという決意が、求められていると思います。

火によって鍛えられて私たちは信者らしくなります。火に耐えられないあいまいな部分は思い切って火の中に投げ込むという潔い信仰を目指しましょう。この潔い信仰に土台をおいて日々を生きることができるように、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ルカ13:22-30)
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