主日の福音07/08/15(No.312)
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
マリアの模範をたたえ、取り次ぎを願いましょう
初めに、与えられた朗読箇所の少し前にエリザベトの取った態度を思い出しましょう。彼女は身ごもって、五か月の間身を隠していたことになっています(1・24)。その理由を想像するのはなかなか難しいですが、彼女の年齢からは考えられない体験を持って、その神秘的な出来事を話す相手が見つからなかったのかも知れません。
マリアもまた、天使から告げられた言葉を誰にも説明できなかったのでしょう。マリアとエリザベト、互いに自分の身に起こったことを話し、分かってもらう相手を必要としていました。そしてマリアは、エリザベトこそその人だと考えたのです。
そこでマリアは、「急いで」山里に向かいます。エリザベットを助けたいという気持ちと、自分もまた話を聞いてもらい、分かってもらうことで助けてもらいたいという思いからでした。マリアの願いが強かったことは、「ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶した」(1・40)ことでわかります。マリアが先に、エリザベトに挨拶します。
エリザベトが先に、「遠いところをわざわざありがとうございます」と挨拶してもおかしくない場面でした。けれどもマリアは、誰よりも先に、よく気づき、思いやりある配慮を示したのです。それは、カナでの婚礼(ヨハネ2章)でぶどう酒がなくなったときに示した配慮につながっていくものでした。
エリザベトは子を宿したためらいをマリアに理解してもらって喜びました。マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」(1・38)と天使に答えた生き方がエリザベトの賞賛を受け、理解されました。ここには、人と人との最高の対話が成り立っています。伝えたい気持ちが十分に理解され、お互いに喜び合う姿です。
今日は「聖母の被昇天」の祭日です。マリアが、体も魂も天に上げられたことを祝っています。マリアにだけ目を向けると、マリアが天に上げられたという見方になりますが、違う見方もあるかも知れません。それは、「聖書と典礼」の最後の頁に紹介されているように、「マリアが、再びイエスと出会う」という見方です。
マリアが天に上げられることが、イエスと再び出会うことであれば、イエスと出会うその時には、地上では解き明かされなかった出来事がすべて解き明かされるのです。マリアは、地上において、イエスにまつわる出来事で何度も理解に苦しむ思いをしました。救い主が生まれると天使に告げられたのに、救い主には宿屋もありませんでした。救い主イエスが生まれて間もなく聖家族はエジプトに避難しなければなりませんでした。
12歳になったイエスとエルサレムの神殿に礼拝に出かけたとき、マリアはイエスを見失い、神殿でやっと見つけたときに「どうしてわたしを捜したりしたのですか」(ルカ2・49)と言われたこともありました。いちばん苦しんだのは、イエスが十字架にはりつけになって亡くなったときでしょう。
多くの理解できなかった出来事がすべて解き明かされる、それはマリアがエリザベトを訪ねて喜びを分け合ったときにまさる喜びだったことでしょう。マリアはすでに地上において深くイエスと対話していましたが、天に上げられてイエスと再び会うとき、マリアはイエスと完全な対話を交わすことができるのです。
最後に、天に上げられたマリアを仰ぎ見て、マリアの取り次ぎを求めることことにしましょう。マリアは、地上においてエリザベトを訪ね、深い対話を交わしました。また天に上げられて、イエスと完全な対話にはいることができました。このマリアの姿を思い描くとき、私たちが取り次いでもらうべきものがはっきり見えてきます。それは対話の能力です。
人と人との間で、よく気づき、思いやりある配慮をもって周りの人と対話する力を願いましょう。そして、私たちと神との間で、これまで以上に神の計らいに信頼を寄せることを、聖母の取り次ぎによって主に願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ルカ12:49-53)
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