主日の福音07/08/12(No.311)
年間第19主日(ルカ12:35-40)
私たちは目を覚まして今を生き抜きます

みなさんは、「合板」という言葉を聞いて、あー、あれのことかとすぐ思い付きますか。思い付かない人のために説明しておくと、一般にベニヤ板と言われているのが「合板」です。薄い板を何枚か縦横に接着剤で貼り合わせたものです。今日の福音を説明するために必要なので、まずベニヤ板のことを取り上げました。今日朗読した福音の箇所は、1枚のベニヤ板のようになっています。中心にいちばん大切な芯になる1文があって、その1文を両方から、同じ材料で接着して組み合わせているのです。どのような作りになっているのか、確認しておきましょう。

今日の福音朗読のいちばんまん中、合板の芯になっている1文は、イエスが今日私たちにいちばん言いたいことです。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。イエスから幸いと言われた僕たちは、将来神の国の宴会の時には、もはや僕ではなく友として、神から給仕をしてもらい、おいしい食事をいただくことになるのです。

考えてみると、神から食事の世話をしていただいてゆっくり食事をするなんて、これ以上ないぜいたくな食事です。いちばんすばらしい方に、いちばんすばらしいもてなしをしてもらって、「どうぞごゆっくり」と声をかけられながらの食事です。ここからは私が考えたことですが、神の国に入るにふさわしいとされた僕たちは、その日から毎日、こんな夢のような食事をするのでしょう。

こんな幸せを味わえる人に、私たちもなりたいものです。そのためにどうすればよいのか。それが中心の1文をはさんで合板のように張り合わされているのです。一方は「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(12・37)という言葉、もう一方は、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(12・38)です。

中心のメッセージを挟むように貼り付けられたこれらの文は、2つの勧めを守る人は幸いだと教えています。一つは「いつでも主人を喜んでお迎えすること」、もう一つは、「主人がいつ来てもいいように、ふだんからよく準備していること」です。この教えを補強するために、今週の福音朗読はさらに両脇に命令する文章を貼り合わせています。「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(12・35)と、「あなたがたも用意していなさい」(12・40)です。これらで中心にある1文を挟み込んで、合板を作り上げているのが今週の朗読箇所です。

繰り返しますが、主であるイエスに食卓でもてなしを受けるという幸せにあずかるためには、2つのことが必要でした。「一つは「いつでも主人を喜んでお迎えすること」、もう一つは、「主人がいつ来てもいいように、ふだんからよく準備していること」です。それぞれ、生活の中でどうやったら実行していけるのか考えてみましょう。

最初の勧めは、私たちに心構えを尋ねているのだと思います。「あなたはいつも、主人である神を喜んで迎えるつもりですか?」この質問に「はい」と答えるためには、よく準備された心構えが必要です。たとえば、「わたしは神に養われているから、とても幸せです。神にいつも見守られていることは本当にすばらしいことだと思っています」というような、神に養われていることを心から感謝する姿勢が必要です。もしも、「どうしてこんな忙しいときにやって来たのですか。もっと暇なときに来ればいいのに」と感じてしまうような体験があれば、私はまだ感謝の心、神をいつも喜んで迎える心が育っていないということになります。

次に、「主人である神がいつ来てもいいように、ふだんからよく準備していること」についてです。これは、はじめの「神を喜んで迎える心」とつながっています。しばしば神は私たちが考えていなかったときにやってきます。神が入り込んでくるにはちょっと早すぎると感じたり、あるいは反対にもう遅すぎると感じるときに神は介入したりするのです。実際には神はいちばん適切なときに、私たちの理解を超えたタイミングで介入しているのですが、こんなときでも「どうぞ、お入りください」と迎えるためには、慌てたり恐れたり疑ったりすることのないように、日頃の準備が大切なのです。

神は考えもしなかったときに「こんにちわ」と言ってやって来ます。それは、あなたの人生の折り返しという場面かも知れません。さあこれで計画したことが実行できそうだというときに計画を白紙に戻すような場面かも知れません。こんな形での介入や、こんなタイミングでの計画変更はどう考えても理解に苦しむと思えるときに、「イエスよ、あなたはどうしてこんな時に割ってはいるのですか」とつぶやいてしまうのです。

神が介入してくるタイミングは、神ご自身が決めることですから私たちには分かりません。神がこうと決めた時間と場所へ、神が決めた形でやってきます。こんなとき、「まいったなぁ」ということがないように、神が計画した介入であればきっと十分な理由があるに違いない、そう受け止めるための訓練を積んでおかなければなりません。

訓練を積む場はいくらでも見つかります。「こんなことをしているときに神が来たら、神は喜んでくれるだろうか」「こんなことを話題にしているときに神がやってきたら、喜んでくれるだろうか」こういう気持ちで、一つひとつの出来事が、神に喜んでもらえるか自分の心に問いかける習慣を付けること。そうすれば、いつ神と出会っても困ることはありません。思いがけない神の介入は、初めは驚き怪しみ、ある時は悲しみや嘆きの原因にもなりますが、最後には信頼と深い心の底での喜びに変わることでしょう。

私たちは福音の呼びかけを長崎の地で考えています。長崎ではこの8月の時期は、戦争について深く考えさせられる出来事を体験しています。それは62年前の8月9日、たくさんの人の命を奪った原子爆弾が落とされた出来事です。本当に、たくさんの人が、無理矢理に命を奪われました。神のもとに、この日一日で何千何万人という人が召されたのです。

あの日の出来事は、神もまた人類の歴史の中でもっとも苦しみを受けた1日だったと思います。だれもが本来の寿命を全うする権利があります。それは、すべての人に約束されなければならないことです。人間同士の悪意のために戦争が始まったとしても、人の命が奪われることはゆるされるべきではありません。8月6日と8月9日に原爆で亡くなった人々だって、命を奪われることを大きな理由のためだったなどと弁解してはならないのです。

現実には、62年前に一つの爆弾で何千人もの人の命が奪われました。神も大きな苦しみを担ったに違いありません。人間がどれだけ人を犠牲にしても武器を捨てず、武器で押さえつけようとするこの過ちを、神は苦しみとして受け止めておられると思います。だれも、命に手をかけてはいけないはずです。戦争をする人間の過ちを見て神は苦しんでおられる。そう考えるとき、私たちはもっともっと、命の大切さを考える必要があるのではないでしょうか。

本当に、与えられた命を大切に思うなら、すばらしい命だと思うなら、私たちは戦争を放棄すべきです。怒りを握りしめている人は怒りの拳を降ろすべきです。こんなことをしていて、神は喜ぶのだろうかと真剣に考えれば、争いはどんなに理由を探しても無意味なはずです。むしろ、争いの道具を手に持つのではなく、両手を自由にして、その手を使って神に感謝を捧げるべきではないでしょうか。私たちのためだけではなく、命を無理に取り上げられ、賛美することを奪われた人の分も、私たちが代わって賛美することも期待されていると思います。

私たちがどんな時代、どんな場所にいても神を迎え入れる準備を怠らないなら、私たちはついに、神の国に召されるとき、神にお世話してもらって食事の席に着くことになるでしょう。神が私たちに、腕をふるって食事を用意してくださいます。私たちは、その神の真心に、お腹がいっぱいになるのではないでしょうか。
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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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