主日の福音07/08/05(No.310)
年間第18主日(ルカ12:13-21)
お前が用意した物は、いったいだれの物になるのか

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」(12・21)。イエスが話したたとえ話の結びの言葉です。私たちはこの言葉を、よく考えて自分に当てはめる必要があります。「自分のために富を積む」とはどういう態度か、「神の前に豊かになる」とはどういう状態か、ここに集まっているすべての人が、両方の面を真剣に考えてみる必要があります。

それぞれに分けて考えてみましょう。たとえ話に出てきた人は「自分のために富を積む」具体例として、「作物をしまっておくこと」(12・17)を思い付きました。しかも、この人は同じ考えを繰り返して、「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう」(12・18)とまで言っています。この人が思い付いたのは、貯めに貯め込むことだけでした。

ところが、この人の命は「取り上げられる」(12・20)ときっぱり告げられます。誰でもいつかは命を取り上げられることになりますが、命を取り上げられたとき悲しい思いをするか、反対に信頼がさらに深まって安心できるかは、命を取り上げられるその日までに取ってきた態度によって大きく変わってくるのです。

たとえ話に出てくる人は、極端に「自分のために富を積む」生き方を選んだのでした。私たちは今どのような暮らし方をしているのでしょうか。与えられた人生の始めから終わりまで、極端に「自分のために富を積む」人はめったにいないと思います。「穀物と財産」この言葉でいろんなこの世の物が表されていると思いますが、多くの人は、何かを人のために差し出して生きているはずです。どこかで、人に喜んでもらえる部分があるはずなのです。

その、人に喜んでもらえる部分を生活の中で削り始めたとき、私たちにも「愚かな者よ」(12・20)という厳しい言葉が降りかかってくるのです。貯めに貯め込むとか、人に喜んでもらうはずの時間や労力を惜しむようになったとき、私たちは本当に大切な命、この世の命が取り上げられても失うことのない永遠の命を危うくしているのです。

人がこの世の物を貯め込むのはなぜでしょうか。いざとなったら誰も頼れないとか、神が何よりも確かな頼りだとどうしても思えないからではないでしょうか。自分の手元からこの世のいろんなものが離れていく、離れていったらもう戻ってこない。こういう経験をするたびに、できるだけ出ていかないようにしなければ自分が損をすると思ったり、神はこの世のものが減っていってもいっさい助けてはくれないと見切りをつけてしまうのかも知れません。

こうなったときこそ、「神の前に豊かになる」ことをじっくり考える必要が出てきます。神の前に豊かになるためには、神のためにこの世のものを使うこと、ここからすべてが始まります。私たちが自分のために貯め込まないで、神のために使えるものはどんなものがあるのでしょうか。

私たちがすでに神のために使っているものを、考えられる限り並べてみましょう。まずは時間です。神を礼拝し、賛美するために、私たちは少なくとも日曜日の1時間あるいは2時間を費やしていると思います。この時間は、決して失っている時間ではありません。神の前に豊かになっている時間です。いちばん実感できる部分かも知れません。

次に、収入の一部を、私たちは神のために捧げています。日曜日の献金がそうですし、年に6回まわってくる特別献金がそうです。また教会維持費や、特別の目的のための積立金など、十分に神のために捧げている部分があります。私たちのもとから必ず出て行っているお金ですが、確実に神の前に豊かになるための支出となっています。神のために手放したものが、神の前に自分を豊かにしてくれないわけがありません。金額の多い少ないはあるでしょうが、神のために手放しているということが大切なのです。

また、教区の行事や地区の活動、小教区で組まれた予定に参加することも、神の前に自分を豊かにすることです。ほとんどのことが、日曜日に組まれています(高島では、婦人会の掃除、大明寺でも大掃除)。馬込教会は7月に、境内清掃をしました。たくさんの方が、汗を流してくださいました。日曜日の休みたい時間です。いろんな使い方があったでしょう。その中で、たくさんの時間を小教区の活動に割いてくださいました。こうしたことは、自分のためには何も残りませんが、神の前には豊かな過ごし方、時間の使い方なのです。

形は違いますが、もう一つ、神の前に豊かになる生き方があります。それは、人のために自分の持っているものを使うということです。ある人は自分の楽しみも横に置いて、家族のためにすべての時間を使います。少しは自分の楽しみのために使ったらと促しても気に留めず、人生のすべてのを家族のため、周囲の人のために使う人がいます。こうした人々は、確かに神の前に豊かな人です。自分のために時間を使いませんでしたが、家族や隣人の中に留まっているイエス・キリストにお仕えするために、自分の一生を捧げたからです。私たちの身の回りにも、このような人がいるのではないでしょうか。

私も自分の司祭職を見つめて思うことがあります。司祭職を通して、「自分のために富を積む」生き方をしてはいないか、「神の前に豊かになる」生き方になっているだろうか、いろんな機会に考えさせられます。洗礼・堅信・聖体・病者の塗油・婚姻など秘跡に関わるお世話をします。これまでに何人洗礼を授けたんだぞとか、これまでにどれだけの人に聖体を授けたんだぞとか考えているとしたら、私は司祭職を通して「自分のために富を積む」ことに心を向けていることになります。自分に何も残さず、「神の前に豊かになる」すばらしい生き方に招かれていても、それでも「自分のために富を積む」危険は減らないのです。

いろんな機会に集まっている人の前で話をします。ミサの説教、結婚式や葬式の説教、または学校やボランティア活動をしている人に向けてなどです。ほとんどの場合、説教をすると同時にその内容は自分から離れ、聞いている人のものとなっていきます。ところが、私の心の中では、ある場合は「どうです、ためになったでしょう」「なかなかいい話だったでしょう」と思っているときもあるわけです。

いつも「なかなか良かったでしょ」と思っているわけでは決してありませんが、まったく思っていないとは言えないのです。こんなことでは、聞く人のためにしているはずの説教が「自分のためにしている」説教に落ちてしまいます。司祭生活が20年、30年続けば数限りなく説教したり話を載せたりするでしょう。こうしたたくさんの説教のうち、9割が神の前に豊かになるような説教になってなかったとしたら、私は20年あるいは30年かけてほんのわずかしか豊かになっていないことになるのです。その危険はおおいにあると思っています。

「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(12・20)。私自身のことで言えば、これまでしてきた説教が、本棚に残るのではなく、説教を聞いた人の心の中に残るように、何度も自分に言い聞かせる必要があります。同じように、一人ひとりが、自分の用意した物が、いったいだれの物になるのか、十分に考えておきましょう。いくらかでもいいから、神の前に豊かになるための物であるようにと、心がけたいと思います。
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(ルカ12:35-40)
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