主日の福音07/07/29(No.309)
年間第17主日(ルカ11:1-13)
探しなさい。そうすれば、見つかる

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。今週の福音朗読のこの箇所から、神は必ず与えてくださるという信頼を深めるきっかけをつかみましょう。2つの、違った形で与えられた例を紹介したいと思います。

結婚講座でのことです。カトリック信者とカトリック信者でない方とが教会で結婚式を挙げるためには、特別な書類が必要です。カトリック信者がカトリック信者でない方と結婚することは「教会法」の中では結婚の妨げ、「障害」となっています。この障害を免除するには書類を申請し、法律上の妨げを取り除かなければ、結婚することはできません。書類は2枚作成します。1枚は、宗教が異なる婚姻、異宗婚障害を免除する「婚姻障害免除書」という書類、もう1枚は、2つの約束を宣言する「約束書」です。

「約束書」の2つの約束は次の通りです。1つは、カトリック信者が自分の信仰をこれからも忠実に守るということ、もう1つは、生まれてくるすべての子供が、カトリック教会で洗礼を受け、宗教教育されるよう、最大限努力することです。私はこの2枚の書類を提出してもらってから、カトリック信者のがわに「これからもカトリックの信仰を恒に忠実に守る」ということについて考え方をただします。納得できる返事をもらえるまで、問い詰めて答えさせるのです。

今から話すのは、男性がカトリック信者、女性がカトリック信者でないカップルの勉強会で実際にあった話です。その日も、いつものようにカトリックの信仰をつねに忠実に守ることについて、しつこく尋ねました。カトリックの信仰を守るということは、大人として義務を果たすということに通じます。カトリック信者の義務、それは分かりやすい部分で言えば、十戒と教会の掟を守り、隣人愛を実践するということです。

掟を守るのは信者の義務ですが、もしも掟を覚えてなければ、守ることもできません。ですから、カトリック信者のほうに「これからも信仰を守るというのであれば、十戒と教会の掟を覚えて、生活の中で守る必要があります。もちろん、覚えていますよね。どうぞ唱えてください」と迫るのです。

ほとんどのカトリック信者は、十戒のうち「父母を敬うべし」とか、いくつかは唱えることができるのですが、ある日の勉強会の参加者は一つも答えることができませんでした。十戒も、教会の掟も、どれ一つ言うことができなかったのです。「どうするの?」私はますますしつように答えを要求します。神父さまは厳しいなぁと思っているかもしれませんが、掟を言えずに信仰を守り通せるとはとても思えませんので、私はこの部分は絶対に譲れないのです。

掟について脂汗をかいてもらったあとに、今度は「ふだんの生活で信仰を保つためには何が必要なのですか」と聞くと、「祈りです」と答えてくれました。「その通りです。では、祈りを何も知らなくても、祈りはできるでしょうか、できないでしょうか」。「祈りを知らなければ、祈れないと思います」と答えが返ってきました。

「普通は祈りを知らないと祈ることは難しいと思います。ふだんの生活で信仰を保つために祈ることが必要だと答えてくれたのですから、何か一つ二つの祈りは知っているのでしょうねぇ」。私はこの人から、「主の祈り」と、「聖母マリアへの祈り」と、「詠唱」を引き出したかったのです。ところが、祈りについてもまともな返事は返ってきませんでした。

「どうするの?」また私から絞られることになります。さんざん絞り上げたあげくに、カトリック信者でない相手の方にこんなふうに尋ねたのです。「○○さん、あなたの結婚相手は、今話したような信仰の面での務めがあるのですが、結婚相手としてあなたは彼の信仰を支えてあげるために、何をしてあげられるでしょうか」。

彼女は、しばらく考えたあと、こう言いました。「わたしが洗礼を受けて信者になれば、彼を支えてあげることができると思います」。中田神父は彼女の言葉に心を打たれました。彼女のこの言葉で彼は信仰について私から問い詰められるよりももっとたくさんのことを考えさせられたのではないかと思います。私は彼女の返事を聞いて、「それは彼を支えるすばらしい方法だから、住所がはっきり決まったら近くの教会に相談に行ってください。何だったらわたしが勉強させてあげてもいいよ」と励ましてあげました。

実は、中田神父には彼女に別の方法で支えてあげてくださいと言うつもりだったのです。それは、「『あなた、結婚講座で神父さまが信仰を忠実に守るために掟を守ることと祈ることと口酸っぱく言っていたでしょ。今日、祈りはしたのですか。日曜日、ちゃんと教会に行く時間を取っていますか。教会維持費は納めているのですか』と、毎日耳元で言い聞かせてください」と言うつもりだったのです。その上にさらに、「きっと今言ったようなことを毎日浴びせかけると彼も参ってしまうだろうから、よかったらあなたが洗礼を受けて、彼を支えてあげるといいですよ」と最後言い添えるつもりでした。

ところが、彼女は私が最後に言おうとしていた結論まで、彼女自身たどり着いたのです。私は、これこそ、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というイエスの言葉が実を結んだ姿だったと思うのです。私はどんなことをすれば、彼を支えてあげることができるだろうか。必死に探し求めたとき、答えをイエスに導いてもらったのではないでしょうか。

もう一つ、キーク・キルゴーというアメリカ人が残した詩を紹介します。彼は1970年代の元米国代表バレーボール選手でした。1976年1月に落馬し、首の骨を折り、重度の障害を負ったそうです。重度の障害と向き合う中で、この詩が生まれました。朗読します。

キーク・キルゴーの詩

大きな夢を実現するために強くありたいと願ったのに
神は私を謙遜な者とするために弱くなさった。

偉大なことをなすために健康を願ったのに
神は健康を理解できるように苦痛を与えられた。

何でも手に入れることができるように富を願ったのに
神は私がエゴイストにならないように貧しくされた。

人々が私を必要とするように力を願ったのに
神は私が人々を必要とするようにはずかしめを与えられた。

人生を楽しむために何でも神に願ったのに
神はいつでも喜んでいられるように命を残してくださった。

神様、あなたに求めたことは何一つかなえられませんでした
しかし、私に必要なことはすべて私の望みに反して与えられました。

神様は賛美されますように、
私は誰よりも恵まれた者だったのです。

一見すると、願ったことが何一つかなえられていないように感じられます。けれども、彼には求めたときに与えられたものがありました。探し求める中で、何かを見つけ出しました。思い通りの形ではなかったかも知れませんが、門をたたいたときに道が開けました。

求めるなら、与えられます。与えられる形はさまざまかも知れません。思い通りの形もあれば、思いがけない形のときもあるでしょう。いずれにしても、神は必ず与えてくださるのです。今週の福音について、実際にあった話に照らし合わせて、考えてみました。
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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ルカ12:13-21)
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