主日の福音07/07/22(No.308)
年間第16主日(ルカ10:38-42)
ただ一つ必要なこととは何でしょう

最近「カラダスキャン」という体重計を買いました。7千円くらいしました。それまでの体重計は980円でした。これまでのものは体重しか計ってくれませんでしたが、今回買った体重計は、体重、体脂肪率、基礎代謝、内臓脂肪レベル、骨格筋率、体の実年齢まで示してくれます。それによると、体重は78.5キロ、体脂肪率は25.0%、ほかにもいろいろ数字がはじき出され、最後に体の実年齢が50歳という判定でした。ショックを受けています。

幸い、学校は夏休みに入りますし、詳しく体の状態を教えてくれる体重計もあることですから、夏はしっかり体を鍛えて、もっとましな体を取り戻そうと思います。今度の体重計はごていねいに肥満かどうかも教えてくれて、男性の場合24%台までは「やや肥満」に入るのですが、25%になるととたんに「肥満」の判定を下されてしまいます。私も、新しい体重計から「『やや肥満』ではなく、『肥満』です」と言い渡されてしまいました。

これだけ体が重くなると、やはり何かを考えなければなりません。別に肥満だから今すぐ何か影響が出るということではありませんが、もしも糖尿病にでもなれば、病院通いで今まで通り説教の時間を確保することはできないかも知れないし、もっと心配なことは、糖尿病になったことで大好きな釣りに行けなくなったりしたら大変です。健康な体を維持して初めて本来の務めも自分の楽しみも続けられるというものです。今現在、私の中で特に気をつけなければならないことは、自分の体を健康的な体に造りかえるということです。

ただし、健康的な体を手に入れると言っても、私は引き締まった体に特別な愛着はありません。元々運動が苦手ですから、体が絞れたからといってそれを鏡に映して満足するような趣味はありません。何のために健康的な体が必要なのか、そのことを考えているだけです。何のためか。それは、司祭としてお役に立つため、健康的な体で「十分に働き、釣りも楽しむ」ために、必要な努力をするということです。

もう少し踏み込んで考えましょう。私にとって健康的な体がなぜ必要か。仕事のためと言いましたが、単に仕事のためではないような気がします。つまりもう一歩踏み込んで考えると、「イエス・キリストのために、わたしは健康的な体で働くべきだ」ということになります。今週の福音朗読はマルタとマリアの姉妹の話なのですが、この物語の中でイエスがマリアの取った態度をこう説明しました。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10・42)。

「必要なことはただ一つだけである」と言っています。中田神父が健康的な体に造りかえる必要を感じたのも、「ただ一つの必要なことは何か」この質問に答えるためです。「ただ一つの必要なこと」それはこれからも健康で仕事を続けるといった表面的なことではありません。だれもが健康を与えられるわけではないし、長生きするわけでもありません。では、「ただ一つの必要なこと」は何か。それは「イエス・キリスト」です。

福音に戻りましょう。今日の物語の中で、「必要なことはただ一つだけである」とイエスが言っているのは何を指しているのでしょうか。少しずつその核心に分け入ってみたいと思います。ただ一つの必要なこととしてまず考えられるのは、「イエスが話す一つひとつの言葉」です。マルタもマリアもイエスの話は耳に入ってきてはいましたが、マルタは「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(10・40)そのため、マルタの心にイエスの言葉はじっくり根を下ろすことができなかったかも知れません。

マリアはと言うと、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10・39)わけですから、イエスの言葉が根を下ろす良い環境にあったと思います。ただし、だれかがもてなしをしなければならないのですから、マルタとマリア、二人ともイエスの足もとに座っているわけにもいきません。いろいろのもてなしをするマルタにとっても、「ただ一つの必要なこと」を見失うことなく、もてなしに専念できる道もあるはずです。

そう考えてみると、結局「ただ一つの必要なこと」とは、「イエス・キリストそのもの」ということになります。イエスの言葉だけが、ただ一つの必要なことなのではなく、「イエス・キリストそのもの」が、人間にとって必要なただ一つのものだということです。

パウロは、「ローマの信徒への手紙」の中でこの点をはっきりと示しています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ4・7-8)。

パウロの最後の言葉に注目しましょう。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。パウロはここで、私たちが主のものとなることで、「ただ一つの必要なこと」を選び続けることができると言いたいのではないでしょうか。「ただ一つの必要なこと」は「イエス・キリストそのもの」なのです。

イエスは「必要なことはただ一つだけである」と言いました。マルタとマリアの姉妹のうち、マリアは「イエス・キリストそのもの」を選ぶためにイエスの足もとに座ることにしました。パウロが言っているように、私たちが主のものとなることで「ただ一つの必要なこと」を選び続けることができるとすれば、マルタも、「いろいろのもてなしを通してすっかり主のものとなる」そういう気持ちに向かっていけば、「ただ一つの必要なこと」を失うことなくもてなしを続けることができるのではないでしょうか。

そうすると、鍵となるのは次の点に落ち着きます。「わたしたちがすっかり主のものとなること」。そうすれば、「イエス・キリストそのもの」を失うことなく、それぞれの持ち場で人生をまっとうすることになるのだと思います。

私は昨日こんな考え事をしました。おそらく、生活を変えることなく人生を終える人が多いのかも知れない。仕事の忙しさを前にしてとうとう最後まで教会に来ようとしない人もいるだろう。いろんな教会の縛りごとを面倒に感じて、教会の門をくぐったけれども離れてしまう人もいるかも知れない。教会の誰かと衝突して嫌気がさし、背を向けてしまう人がいるかも知れない。

たとえそうしたいろんな事情で教会から遠のいている人がいるとしても、その人がどこかで「イエス・キリストそのもの」を「ただ一つの必要なこと」と考えて暮らして欲しいと願うのです。教会の六つの掟は大切ではありますが、「イエス・キリストそのもの」ではありません。日曜日に教会に来なくなったとしても、「ただ一つの必要なこと」である「イエス・キリストそのもの」を失って欲しくないなあと、そのことを願いました。

さらに願わくは、だれもが自分自身がイエス・キリストのものとなることを望む人であって欲しいと思います。家庭生活にある人、司祭・修道者、独身の人、配偶者を失った人、また病気を抱えて不安の中にある人、どんな人でも、置かれた場所で生活をそっくりそのまま主のものとなるように心がけて欲しい。昨日から今日にかけては、そのことだけを願って思いを巡らせていました。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ルカ11:1-13)
‥‥‥†‥‥‥‥