主日の福音07/07/15(No.307)
年間第15主日(ルカ10:25-37)
行って、あなたも同じようにしなさい

今週の福音書の朗読箇所は「善いサマリア人」のたとえです。今年、初心に返って次の2つの言葉を比べながら糧を得ることにしました。比べたいのは、1つは「わたしの隣人とはだれですか」(10・29)という律法の専門家の言葉、もう1つは「行って、あなたも同じようにしなさい」(10・37)というイエスの言葉です。

イエスが言った「行って、あなたも同じようにしなさい」とは、前後の流れから考えると、「行って、あなたもだれかの隣人になってあげなさい」という意味でしょう。ですから比べて考えたいことは、「わたしの隣人とはだれですか」ということと、「だれかの隣人になってあげること」この2つの違いを考えるということです。

2つの違いを考えるために、私が思い付いたことを例にしてみます。それは、「祈りについて」です。2つの違った言葉を並べてみます。1つは、「わたしが祈る相手はだれですか」という言葉、もう1つは、「とにかく、だれかのために祈ってあげること」この2つの違いです。

「わたしが祈る相手はだれですか」。この問いかけには、終わりはないと思います。私に家族がいるなら、家族のために祈るべきでしょうし、身近な人で病気にかかっている人を知っていたら、その人のために祈ってあげたほうがよいと思います。また、私自身のために祈ることも、考えておいたほうがよいでしょう。

このようにいろんな相手を思い浮かべて、「わたしが祈る相手がだれなのか」を見極めたとしましょう。ただしここには、1つ落とし穴があると思うのです。それは、「いくら祈る相手がだれか分かっても、だからといって実際に祈るとは限らない」ということです。

家族のために祈るべきです。病気の人のために祈るべきです。大好きな人のためとか、自分自身のために祈るべきですが、祈る相手が分かって、それがそのまま実際の祈りにつながるとは限らないのです。祈る相手が分かったというのに、家族のために結局祈らなかった。病気を抱えている人のためにとうとう最後まで祈らなかった。一度も祈ることなく大好きな人を失ってしまった。こんなことはめったに起こらないと言い切れないのです。

一方、「とにかく、だれかのために祈ってあげること」こちらは必ず目標にたどり着きます。終わりのない話し合いや議論ではなく、必ず結果を出します。家族のために主の祈りを1回祈った。病気のあの人のために、聖母マリアへの祈りを1回唱えた。私自身のために、自由な言葉で祈ってみた。どれも無駄が無く、必ず結果に結びついています。そこには「考えてはみたけれども祈らなかった」という落とし穴もないのです。

どちらが、意味があり、結果をともなうでしょうか。疑いもなく、「とにかくだれかのために祈ってあげること」のほうが意味のある考え方です。私も、最近1つの経験から、「とにかく、祈ってあげることが必要だ」とあらためて考えさせられました。それは、電話で相談を受けた病人との出会いです。

私はこの病人とは1度も直接会ったことがありません。ところが、向こうは私を知っているらしくて、現在の自分の病状や、何を必要としているか、どんなことをかなえてほしいと思っているか、事細かにメールで相談をなさるのです。私は最初、「何について祈ってほしいのかとても具体的だなあ」と思ってそのたびごとにその人のために祈ってあげていたのです。

ところが、少し考えているうちに、私は「わたしが祈る相手はだれなのか」を目の前に示されて祈っていたのではないだろうか、ただ言われたからそれに従って祈っただけで、私のほうから「行って、その人の隣人になってあげる」という気持ちではなかったのではないかと感じたのです。

原因はどこにあるのか。おそらくそれは、こまめにだれかのために進んで祈ってなかったからではないかと思います。毎日のミサ、司祭や修道者に義務づけられている教会の祈り、洗礼・堅信・罪の赦し・病者の塗油・婚姻などの秘跡、通夜での祈りや、納骨、火葬の前の祈りなど、さまざまな場面で「はい、ここで祈ってください」と示されて祈ることがあまりにも多いので、私は個人的にだれかのために祈るとか、ある一定の人々のために祈るということがおろそかになっていたのではないか。そんなことを考えたのです。

さんざん祈りの場に引き出されていながら、私は「行って、だれかの隣人になってあげる」ということが本当はできてなかったのではないかと反省させられました。先週の福音朗読のなかには、「『この家に平和があるように』と言いなさい」(10・5)とありましたが、本当にその人のためだけを思って、素直に祈ることがいったいどれくらいあっただろうかと、つくづく考えさせられたのです。

私は、たくさんの祈るための場を与えられる中で惰性に流されたり機械的になったりして、いつの間にか「わたしが祈る相手はだれですか」という態度を取っていたかも知れません。これは私の反省ですが、みなさんもお一人おひとり、「わたしの祈る相手とはだれですか」という落とし穴に落ちているかも知れません。

たとえば、どれだけ考えても話を聞いても、実際には主の祈り一つ唱えようとしないのは、態度で「わたしの祈る相手とはだれですか」と返事をしているようなものです。「わたしの祈る相手とはだれですか」「わたしの隣人とはだれですか」これらの問いかけにはたどり着く目標など無く、無意味な議論を重ねるだけなのです。

むしろ、「とにかくだれかのために祈ってあげる」「行って、だれかの隣人になってあげる」文字通りに実行してみることです。例えば、今日の説教を聞いて、ミサの中で祈ってあげる必要を感じる人が思い浮かんだとしましょう。ミサの終わりに十字架のしるしをしてアーメンと唱えます。そのあとすぐに席を立つのではなくて、席を立つ前に、実際にだれかのために祈ってあげることです。それが、意味のない議論から抜け出す唯一具体的な方法ではないでしょうか。

教会を出る前に、実際に祈ってあげる必要のある人はいくらでも思い付くはずです。私のことを告白するなら、過ぎた一週間の中で「あの野郎」と思った人が実はいまして、思ってはいけない言葉を心の中で言ってしまったわけです。そこで、私はこのミサが終わってひざまずくときに、「『あの野郎』と思ってしまった人のことをゆるしてください」と祈りたいと思います。私は気が短いため、「あの野郎」と思うことがしばしばあるのです。ぜひゆるしてもらいたいと思っています。

「だれかのために祈ってあげること」「だれかの隣人になってあげること」。実行するための力の源はどこにあるのでしょうか。それは、先に私のために祈ってくれたイエス、私の隣人になってくれて、私の救いに必要なことはすべて配慮してくださったイエスに力の源があります。

だれかのために自分を使おうと、何度も実行しようとして失敗したり挫折したりするかも知れません。それでも、いつも私に手当をして立ち直らせてくださる「善いサマリア人」であるイエスに力を願い、今日も「だれかのために祈ってあげる」「だれかの隣人になってあげる」この生き方に自分を向けていくことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(ルカ10:38-42)
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