主日の福音07/07/01(No.305)
年間第13主日(ルカ9:51-62)
イエスを前に見てともに進む

今日、二つのことを前置きとして話したいと思います。1つは、大浦教会で四人の中学生が合同堅信式に参加するということ、もう1つは、江袋教会の復元についてです。

幼児洗礼を受けている中学生にとって大切な堅信式がやってきました。この場に中学生はいないのは、8時15分の船に乗って大浦に9時に集合し、一通り直前練習をして大司教さまのミサにあずかって堅信の秘跡を受けるためです。堅信を受ける子どもたちには、少なくとも3つの質問に答えられるか確認して、堅信を受けさせることにしました。

第1に、堅信の秘跡を授けてくださる司教さまの名前を覚えているか、ということです。もちろん、ヨセフ「たかみ」三明大司教ですが、紙にちゃんと書けるかどうかも必要です。実は、「たかみ」三明の「たか」は、ちょっと面倒な漢字でして、「はしごだか」と言われる「たか」なんです。

これはちょっと難しいだろうなあと思っていましたら、中学生からこういう声が出ました。「あー、中学生にその漢字の子がいます。だからちゃんと書けますよ」。ちょっと難しい漢字で困らせようと思っていたのに、期待はずれでした。

第2に、使徒信条をきちんと言えるかです。ミサの説教のあとに、皆で唱えていますね。信仰を宣言するあの祈りが、祈祷書を見なくても言えるかどうか。私は常々こんなことを言い聞かせています。「あなたが、カトリック信者として、何を信じているかを人に知らせるいちばん手っ取り早い方法は、使徒信条を唱えてみせることです。祈祷書を見ながら唱えるのでは不合格です。

もし祈祷書がなかったら、あなたは信じていることを言い表せないことになります。信じているということも証明できないことになります。だから、しっかり覚えるのです。祈祷書が使徒信条を覚えていても意味はありません。あなたが覚えて、あなたが信仰を言い表せなければならないのです」。

第3の質問は、堅信の秘跡で受ける聖霊の七つのたまものです。今の言い方では次のようになります。「知恵、理解、判断、勇気、神を知る恵み、神を敬う恵み、神を愛する恵み」の7つです。堅信の秘跡で何が与えられるかは知っておくとためになります。堅信の秘跡を受けたのだから、一人ひとりは七つのたまものがきっと与えられると信頼し、自信を持つことができます。どんなたまものが与えられるか知らなければ、自信も付くはずがありません。

これら3つの質問に難なく答えることができるところまで子どもたちは成長してくれました。残念ですが、堅信を受けさせてあげることにします。本当は喜んでいるんですけど。

もう一つの前置きは、江袋教会のことです。教会が火事で焼けてしまったことはとても残念なことでした。ただ、建物はまた建て直すことができます。雨風をしのぐだけの教会をこしらえることもできるでしょう。自分たちの信仰生活に十分活用できる、そこまでの建物にすることもできるでしょう。

ただ今回は、大司教さまの「もとの教会に戻す=復元」という意向が働いて、信徒側の意見は前の教会を建てるという思いまではなかったかも知れませんが、結果として復元することになりました。このため、教区に復元基金が設けられることになり、私たちも今日のミサの献金で協力することになりました。

いろんな方面の協力を仰ぐことは、ありがたいことであると同時に自分たち自身の覚悟も必要になると思います。地元の信徒も、必ず善意の人々の恩に報いようと考えるのではないでしょうか。

堅信を受ける中学生と、資金の援助を受ける江袋教会の信徒の人々。私は共通点があると思います。それは、堅信を受けた信徒であるということです。これから、大人の信者として歩いていく中学生も、それなりの覚悟を持ってこれから歩き出します。また、江袋教会の信徒も、多額の資金援助を受ける責任を受け止め、大人の信者として前を向いて歩いていくことでしょう。その姿を想像していると、今日の福音の様子に通じるものを感じます。

朗読箇所は、イエスがいよいよエルサレムでの最後の日々を迎える決意を固める出来事です。エルサレムでの日々とは、イエスの受難と復活を通して救いのわざが完成されるまでの日々です。今日の出来事から、前に進むイエスの強い気持ちが伝わってきます。

前に進むイエスをはばむ事件が起こりました。サマリアの人々は、イエスを歓迎しませんでした。弟子のヤコブとヨハネは、イエスをはばむ人々を取り除こうという熱意に駆られますが、イエスはそれを制します。実は彼らはイエスに対して何もできません。イエスにとって必要なのは、困難が待ち受けていても前に進むことでした。父なる神に栄光を帰すことにすべての注意を傾け、先へ先へと進むのです。

イエスの思いは、他の人々にも決断を迫ります。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(9・57)。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」(9・60)「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9・62)。私たちもこのイエスに日々従って歩むのです。

今日の出来事で言えば、堅信を受けた中学生も、しっかりとイエスを見つめてついていきます。江袋教会の信徒も、私たちの今日の献金を受け取って、必ず教会を維持していきますという思いを新たにして、イエスについていくことでしょう。

強い決意で、前に進まなければ、イエスの歩みから遅れてしまいます。将来の生活の保障(枕するところ)を心配すれば、従おうという決心は鈍るでしょう。父を葬りに行きましたが、残された家族の心配に支配されれば、埋葬を済ませても戻っては来ないでしょう。後ろが気になってついに前に向き直らなければ、もはやイエスの姿は見えなくなってしまうでしょう。私たちはイエスに従う決意をしたならば、強い気持ちでそれを保つ必要があるわけです。

堅信式も、江袋教会復元のために資金の援助を受けることも、あらためてイエスに従う決意を作らせる出来事だと思います。イエスが今日の出来事で求めている「弟子の覚悟」は、当時の12人の弟子にだけ求められているのではありません。イエスは私たちすべてに、「覚悟」を求めます。

教会の焼失にも決して失望することなく、信仰を次の世代に伝えるために、または自分がいじめられることを恐れていじめに手を貸すように強要されるのをきっぱり断るときも、あるいは自分の信仰をつい隠そうとする誘惑に打ち勝つためにも、私たちには「最後までついていく」強い決意が必要なのです。

イエスを前に見て歩み出そうとしている中学生、教会の復元に信仰を後世に伝える固い決意をしようとしている江袋教会の信徒の人々。この両者を、今日ミサの中で心に留め、応援してあげることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
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