主日の福音07/06/24(No.304)
洗礼者聖ヨハネの誕生(ルカ1:57-66,80)
信仰者は見えないものに目を向ける

今日は、6月24日の「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祭日のミサがささげられています。「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祭日は6月24日に固定されている祭日ですが、今年は日曜日に重なりました。先週の日曜日が年間第11主日で、来週が年間第13主日なのですから、本来今日は年間第12主日の典礼でミサをささげるのが普通かも知れません。

それでも、あえて6月24日の典礼を優先させました。そこまでして「洗礼者聖ヨハネの誕生」を優先させる意味を少し考えてから、朗読された福音に入っていくことにしましょう。

皆さんは6月24日と聞くと、何を連想するでしょうか。もちろん、「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祭日だと前置きしたので、多くの方がそのことを考えていると思いますが、私はもう少し幅広く意味を探った方がよいと思っています。

ヒントは、「24日に、『誕生』を祝っている」というものです。キリスト教の祝いの中で、いちばん大切な誕生の祝いはいつでしょうか。言うまでもなく、12月24日、イエス・キリストの誕生を祝う日です。そして、今日6月24日は、その6ヶ月前で、イエスの誕生に先立って、洗礼者聖ヨハネの誕生を祝っていることをはっきり数字で表していると思います。イエスに先立つ人物で、欠くことのできない人物の誕生が今日の洗礼者聖ヨハネです。日曜日であっても、優先させようとした教会の思いをここに汲み取りたいと思います。

さて今日の福音ですが、周囲の人々がザカリアとエリザベトの夫婦に起こった出来事をどのように受け止めていったかを追いかけながら、今週の糧を得ることにしましょう。ザカリアとエリザベト夫婦は普通では考えられないような体験をしました。年老いた妻エリザベトはみごもり、男の子を産みました。まずは高齢であった夫婦に子供が授けられたことが不思議な体験です。

次に、当時の習慣に従って割礼を受け、名前を付けようというときに、妻は「息子にはヨハネと付けます」と言い張ります。周りの人たちは、「親戚にはそんな名前の人はいない」と考えましたが、口の利けない夫ザカリアも、書き板に「その名はヨハネ」と書いたのです。夫婦の間で声の会話ができないのに、どちらも子供の名前に「ヨハネ」を望んでいたことは、二つ目の驚きでした。

実はこれらの出来事には、目で見える部分と、目に見えない部分の両方の意味を探す必要があると思います。子供の誕生を目の当たりにしたとき、周囲の人々は「高齢の夫婦にも子供が授けられて良かったね」という接し方でした。これは人間として理解できる範囲の出来事でしたが、名前をヨハネとしなければならないと夫婦が答えたとき、人々は驚きました。「え?どうして?」そういう思いです。

この時人々にとってザカリアとエリザベトは、自分たちから遠く離れた人と感じるようになりました。いわば非常識な名前の選び方をするこの夫婦が、誰なのか理解できなくなっていたのです。そして、ザカリアの口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたとき、理解できないと思っていたのが、全く理解できなくなったのです。「近所の人々は皆恐れを感じた」(1・65)とあります。見える部分では、ザカリアとエリザベトの夫婦は、「理解できる夫婦」から「理解できない夫婦」に変わり、最後は「全く理解できない夫婦」になっていきました。

ところが、見えない部分では周囲の人々に違う変化が起こっていたのです。この夫婦に神が深く関わっていることが、徐々に理解できるようになります。はじめは人々は神がそれほど深く関わっているとは思ってもいませんでしたが、名前をつけようとするときに何か違う働きが関わっていると気づき、最後には神がこの夫婦に深く関わっていることがはっきりと理解できるようになります。

つまり、見える部分だけを追いかけると、人々にとってザカリアとエリザベトはどんどん理解できない夫婦へと変わっていったのですが、見えない部分、神の深い働きかけを知ろうとしたとき、この夫婦のことがより深く理解できるようになったのです。人間の目では理解できない不思議な出来事を目の前にしたとき、見える部分ではなく、見えない部分に目を留めるなら、むしろ出来事は分かりやすくなるということです。

私たちはどうでしょうか。何か、理解に苦しむ出来事が生活の中で起こっているでしょうか。どうしても理解できないというとき、もしかしたら私たちは目に見える部分だけに気を取られているかもしれません。そんな時こそ、見えない部分で何かが起こっているのではないだろうかと、考えてみることが必要だと思います。洗礼者聖ヨハネの誕生は、つい見える部分だけで物事を考え、答えを出そうとする私たちに、見えない部分をもっとよく考えなさいと促していると思います。しばしば、見えない部分にこそ大切な意味が込められているのです。

見えない部分に目を留める一つの方法を紹介しておきます。意外なことですが、生活の中に沈黙の時間を作ってみると、見えない部分に目を留めることができるようになると思います。沈黙とは、周りの音をいっさい遮って、自分と向き合うことです。何も音がしない静けさを意識して作り出すと、どんなにかすかな音でも聞き取れるようになります。

かすかな音も聞き逃さない。こんな静けさを一日の中でちょっとだけ作ると、今まで聞き逃していたものを捉えることができるようになりますし、同じように、今まで見えていなかったものが見える、つまり、目の前のことだけではなくて、その奥にあるものを見ようとする力が付いてくると思います。初めから、見えないものを見ようとしてもできないかも知れませんが、生活の中に沈黙の時間を設けると、次の段階、見えないものを見ようとする力が身についてくるはずです。

実は、沈黙の時間を作ることは、神さまの思いに触れる近道でもあります。神は、つねに沈黙を守っておられる方です。それは、沈黙の状態こそ、どんなにかすかな音にも敏感になれる状態だからです。私たち人間の、声にならない声、かすかな叫びにも耳を傾け、願いを聞き届けるために、神は沈黙の中につねにおられるのです。

私たちが生活の中で沈黙の時間を少しだけ用意すると、次第に沈黙を守っておられる神に近づくことにもなります。この沈黙の中におられる神が、洗礼者聖ヨハネの誕生の出来事を通して、見えないものにこそ目を向けなさいと呼びかけているのです。

見えない部分を見ようとする努力が、今週は求められています。見えないものを見ようとするとき、私たちはこの世の生活をもっと信仰に照らして歩くことができるようになるのです。
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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
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