主日の福音07/05/27(No.300)
聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)
聖霊体験で私たちはイエスをより深く知る

今週の聖霊降臨の説教を準備するために、聖霊についての古い時代の説教を読んでいましたら、なるほど、かつての司教はこんなたとえから入っていったんだなあと、感心いたしました。今日は二人の司教、今から1600年も前の司教が残してくださった説教から、聖霊について考えてみたいと思います。

一人は、エルサレムの司教だった聖チリロです。彼は、聖霊を説明するために、イエスが井戸のそばでサマリアの婦人とお話なさった会話に目を付けました。のどの渇いたイエスは、サマリアの婦人に「水を飲ませてください」と話しかけたあと、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)と仰るのですが、実はここで言われた「水」とは、「聖霊」のことであったという注釈をしたわけです。

イエスが仰る「水」が、「聖霊」であれば、聖霊が汲み尽くすことのできない井戸のようなものだということになります。イエスが「聖霊」を与えてくださり、それは、永遠の命に至る恵みの泉となってわき出るようになる。のどを潤す水は何度も口から補う必要があるでしょうが、聖霊を受けた人、聖霊の溢れ出る恵みに気づいた人は、渇くことがないわけです。

今話した部分は、聖チリロ司教の説教で言うとほんのとっかかりの部分だけで、説明すれば時間はいくらあっても足りません。聖霊が、どのようなものなのかを考えるきっかけとして、まず取り上げてみました。

二人目の司教は、同じ頃にフランスの(ポワティエの)司教だった聖ヒラリオです。彼は、聖霊が、神様を知るために与えられることを、分かりやすく説明します。古代の司教の説教にはいつも感心させられるのですが、紙と鉛筆がなかった時代に、五感(目・耳・鼻・口・手足)でつかめるようなたとえをよく織り交ぜて話しました。

つまり、こういうことです。目は、もともと、ものを見る力を十分に備えています。ですが、外に光がなければ、十分備えている力も、力を発揮できません。それは、目にものを見る力がないからではなくて、「見える」ということは、まずは、「外が明るい・光がある」ということがあるから見えるということなのです。

念を押して言いますが、私たちがものを見るとき、自分で光を出して物を照らして見ているわけではありません。そこに人が立っていても、動物が横切っても、外からの光がなければ何も見えないのです。これは分かると思います。

耳も同じことで、耳は微かな音でも、敏感に聞き分ける力をもともと持っているわけですが、どんなにいい耳をしていても、外に音がなければ、何も聞こえないのです。テレビの音声を切ったままだと、テレビの中の人がどんなに口を動かしても、何も聞き取ることができないのと同じです。テレビの音が聞こえないとき、私たちは自分の耳を疑うのでしょうか、テレビを疑うのでしょう。当然、テレビだと思います。

こうしたことから、聖ヒラリオは、聖霊について考えました。神様は、人間に、ご自身を探し求め、ついにたどり着くだけの力をはじめから与えている。けれども、力を備えてくださっていても、それだけではたどり着けないのです。人間の五感は外からの刺激を必要としています。聖霊は、外からの光のように、あるいは音のように、先にわたしたちに働きかけて神に向かわせるのだと言うのです。

ここからは私なりのまとめなのですが、「何かが見えた」「何か聞こえた」という場合、それに先立って光や音があるように、イエスが仰っていることはこうではないだろうか、イエスはこう私に呼びかけておられるのではないだろうか、と感じるのは、確かに聖霊が働いておられるしるしではないでしょうか。イエスの教え、イエスが招いている呼びかけが分かったと言うとき、聖霊があなたの内にあって、光となり、音となって感じさせてくださっているのです。

つまり、神の愛やいつくしみ、神のご計画に私たちが気付くという場面で起こっていることは、聖霊があなたに降っている、聖霊が「降臨している」ということなのではないでしょうか。イエスが約束してくださった「弁護者である聖霊」は、イエスの思い・望みに私たちが触れる度に、私たちに降り注ぎ、あるいは私たちの中で働いておられるのです。

弟子たちに聖霊が注がれたことを記念する今日、私たちにもイエスは聖霊を注いでくださり、神を知り、愛する恵みを強めてくださいます。今日いただいた賜物を携えて、社会に戻っていきましょう。一人でも多くの人が、霊に満たされ、神をもっと身近に感じることができますように。
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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
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