主日の福音07/05/20
主の昇天(ルカ24:46-53)
天に昇ってもイエスにつながっている

今日私たちは、ご昇天のお祝い日を迎えています。福音朗読では、「(天に上げられた)イエスを伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24・52)ことが記録されています。主の昇天は、私たちにとっても喜びとなります。どのような喜びとなるのか、考えてみることにいたしましょう。

イエスは天に上げられる前に、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」(24・48)と言い残しました。父が約束されたもの、それは聖霊です。弁護者(ヨハネ14・26)とか、真理の霊(ヨハネ16・13)と呼ばれる霊で、「真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16・13)お方です。

この聖霊の働きはある意味すでに始まっています。イエスが天に上げられたとき、弟子たちは大喜びでエルサレムに帰ったのです。つまり、聖霊はすでに弟子たちに働いて、イエスが天に上げられても大喜びしていられることを理解させてくれたのです。

なぜ、イエスが天に上げられても弟子たちは喜んでいられたのでしょうか。それは、イエスが言われた「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)という意味がはっきり理解できたからだと思います。イエスが意図していた「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という意味は、どんなものだったのでしょうか。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。このイエスの言葉は、「そこにいる」という物理的な意味ではありません。イエスは物理的に「いつも共にいる」のではありません。そうではありませんが、それでも確かに「世の終わりまで、いつも共にいる」のです。

つまり、イエスがそこにいなくても、聖霊がかつてイエスが話してくれたことを生き生きと説明してくださるので、イエスは「共に」いてくださるということを実感できたのではないでしょうか。

また、弟子たちはイエスの次の言葉を思い出したでしょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっているならば、その人は豊かに実を結ぶ」。弟子たちはこのあと聖霊降臨を受けて、あちこちで大胆に宣教します。多くの人がイエスを信じたので、主が共にいてくださること、自分たちがイエスというぶどうの木につながっているから、これだけの成果につながっているのだと実感したのです。

またこの「ぶどうの木と、その枝」というたとえを通して、弟子たちはイエスにつながって生きているなら、イエスの歩んだ道とその栄光は、枝である自分たちにも及ぶのだということを理解していました。ですから、イエスが復活したのであれば、つながっている私たちも復活するのであり、天に昇って行かれたのであれば、私たちもつながって天の国に迎えられる。その確信があって、弟子たちは大喜びしたわけです。私たちはイエスにつながって生きているし、喜ぶときも、悲しみを背負うときも、いつもイエスといっしょだ。そういう実感が、彼らに大きな喜びを与えたわけです。

私たちもそうです。イエスと切り離されていないなら、いまの暮らし、いまの喜びや悲しみにあっても、私たちもイエスの昇天を心から喜ぶことができます。イエスが共に担ってくださるからです。共にいてくださることを理解できたとき、栄光に入られたイエスの姿は、もう他人事ではなくなっているのです。私にいちばん身近な出来事になっているのです。

ところで、弟子たちはすぐにこのような心境にたどり着いたのでしょうか。先に考えたように、弟子たちとて、最初は「天を見上げて立っていた」のです。み使いは、「なぜだまって突っ立っているのか」というような言葉を弟子たちにかけています。この招きは、時を移さずに行動しなさいという励ましの言葉のはずです。宣教、つまり人々に伝えるという行動を起こすことで、私たちが主から喜びをいただいたように、新しい人々が主の昇天を喜び合うことができます。

主の昇天は主ご自身と出来事を目撃した人々には説明の必要すらないかも知れません。けれども、イエスの生涯を知らない人にとってはていねいに説明してもらわないと理解できない神秘です。ですから、昇天を含めイエスの生涯の出来事は宣教活動を通して初めて共有できるようになるのではないでしょうか。

「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24・46-48)。宣教活動を通してこそ、「わたしにとっても、あなたにとっても、主は復活され、昇天された」と喜び合うことができるのです。

ところで、出来事の証人になる人々は一部の目撃者だけではありません。今も、イエスと出会う喜びに触れていない人が大勢います。今の日本で、証人になるのは私たち一人ひとりです。そして証言する力の源は「大喜びで」「神殿の境内にいて」「神をほめたたえる」(24・52-53)この3つです。これらが私を動かして宣教へと駆り立ててくれます。

大喜びで。まずは私たちがイエスの一つひとつの神秘に喜びを覚えることから出発します。次に教会に集まって祈りと恵みに満たされること。これが力を蓄えることになります。この恵みに満たされることが宣教する力を養う食べ物です。そして最後に賛美が口からあふれ出ることです。こうして、さらに多くの人がイエスの復活、昇天を知り、触れることになるのです。

次のご復活、ご昇天までこれから一年の時間があります。一年かけて、私の働きかけをきっかけにして共に喜び、神殿に集い、神をほめたたえるようになる仲間を得ることができたら何とすばらしいでしょう。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
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