主日の福音07/05/06(No.297)
復活節第5主日(ヨハネ13:31-33a,34-35)
「与える」ことに神の愛を知る

土曜日の昼、十二時直前に、小学校1,2年生の子供かなあ、と思う男の子が司祭館の玄関に立って、「こんにちはー、こんにちはー」と声をかけてきました。いかにも精一杯の勇気を出して、おそるおそる、といった感じでした。

司祭館の二階にいた私は、一階に下りずに二階の廊下から、「はい、こんにちは。教会でお祈りするんですか」と聞きました。ちなみに私は、基本的には「お祈りに来た人」には最大限協力するつもりなので、観光に来た人にも「お祈りの方ですか」とわざと言って、教会でお祈りをするように促して教会を開けることにしています。

私が男の子に、「お祈りに来たんですか」と聞きましたら、「ここは教会ですか」とその子が返事をしました。「そうですよ」と言ったら、司祭館の玄関をあがって、応接室に入ったんです。慌てて、「ちょっと待ってね。教会を開けるから」と言って家族の元に戻しました。子どもがたくさんいる家族で、「どうもすみません」とお父さんが挨拶して教会の中に入っていきました。

おもしろかったのはここからです。おそらくさっきの男の子はお父さんに言われて司祭館にお礼を言いに戻ってくるに違いないと思いまして、たまたま手元にあった三笠山の箱を開けて、その子が玄関に来るのを待っていたんです。案の定、男の子は玄関にやってきました。

「お菓子をあげるよ。兄弟何人いるの?」その子は目を輝かせて「何人兄弟です」と言うのも忘れて三笠山に手を出しました。「1つ2つ3つ4つ5つ6つ」。両手に三笠山を一杯抱えて、最後に男の子はこう言いました。「今度この教会に来たときも、またお祈りします」。そうかぁ。お祈りに来てくれるか。その時はまた三笠山を上げるからね。私は心の中でそう言って、家族を見送りました。4人兄弟のようだったので、三笠山を2つ損しましたが、気分は悪くありませんでした。

さて今週の福音に入っていきましょう。朗読箇所から、「与える」という動作に注目してみました。2つの「与える」様子を拾うことができます。1つは「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」(13:32)。もう1つは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)。です。

この朗読の中で神が御子に栄光を与えることと、イエスが弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」こととは、一見してあまり共通点がないように思えるかも知れません。一方は「栄光を与える」と言っているし、他方は「掟を与える」と言うからです。本当のところは、どうなのでしょうか。

私は、この一見して似ていないものが、実は共通の土台に立っていると考えています。「与える」という姿に、「栄光を与える」のも「掟を与える」のも変わらない部分があると考えたのです。それは、「喜んで与える」ということです。栄光を御子に与える御父の場合も、掟を弟子たちに与えるイエスの場合も、どちらも「喜んで与える」気持ちは変わらないのではないかと思っています。

ここで、皆さんは考えることでしょう。「父である神が御子に栄光をお与えになる場合、喜んで与えるのはよく分かるけれども、イエスが弟子たちに掟を与えることが、どうして喜んで与えることになるのでしょうか」。確かにそう感じるかも知れません。

この疑問を解決するために、私たちが日頃経験していることを思い出してみましょう。私たちは何かの立場で、誰かに物事を教えたり指導して育てたりすることがあると思います。例えば、親が子に、はじめは本当に小さな事を言いつけて、その子がうまく頼まれたことを果たしたとき、今度は喜んでもう少し難しい課題を与えるのではないでしょうか。

こうして少しずつ難しい課題を与えていくとき、親は子に対して、かわいそうだとか、心配だとか思ったりするのでしょうか。むしろ、喜ばしく、誇りを持つのではないでしょうか。自分の子供が、さらに難しいことをこなせるところまで来た。だから、喜びと誇りを感じながらもう少し高い課題を与える。イエスが、弟子たちに掟を与えたのは、そのような心だったのではないでしょうか。

弟子たちは、3年間の教育を経て、はじめは全く分からなかったことでも少しずつ理解できるようになり、徐々にイエスの期待に応えられるようになってきました。そこでイエスは、喜びをもって、1つの掟を弟子たちに与えたのです。「互いに愛し合いなさい」という掟です。

私は、土曜日の昼にやってきた子供が、お祈りのことを分かっていたかどうかは知りません。カトリック信者だったかも知れないし、そうではなかったかも知れません。けれども、教会から戻って司祭館にお礼を言いに来たとき、三笠山をもらった返事に「今度この教会に来たときも、またお祈りします」と言ったのです。

普通なら思いがけなくお菓子をもらった嬉しさでお礼を言うことを忘れてしまっても不思議ではない場面です。二度と会わないかも知れない家族にお菓子を与えましたが、私は喜びで一杯になったのです。その男の子は、喜んで与えるに価する子供だったのですから。

神は、何かを与えるにあたって喜んで与えるのだと思います。この世界を作ったときも、この世に人間を形作ったときも、喜びに満たされて、すべての被造物を良しとされたのでした。今もさまざまな命をこの世界に与え続けています。豊かに与え続ける神は、喜びで一杯なのではないでしょうか。命に限らず、人間に掟を与えるときも、戒めを与えるときも、神は人間を掟や戒めに価する存在としてお認めになり、喜んで与えるのだと思います。

イエスもまた、父なる神の与える姿に倣って、病気の人に健康を与え、迷っている人に道を示し、喜びをもって与え続けました。これらのことを考え合わせるとき、私たちもまた、何かを与えるときに、神のいつくしみの心に触れることができるのではないでしょうか。それぞれ、自分の子供に、自分が関わった人に、自分自身を喜んで与えるときに、私たちは神の愛に触れるのではないかと思います。

「今度この教会に来たときも、またお祈りします」。あの男の子の言葉を聞いて、三笠山を上げたのは失敗ではなかったと、今確信しております。
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‥次の説教は‥‥
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(ヨハネ14:23-29)
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