主日の福音07/04/07(No.292)
復活徹夜祭(ルカ24:1-12)
一人残らずキリストの光のうちに歩もう

主の御復活、おめでとうございます。今日のこの日のために、聖木曜日からの三日間、典礼にずっとあずかってくださった方は、イエスが私たちのために、どこまでご自分を与え尽くしてくださったかを、よく学ぶことができたと思います。今日私は、ミサのはじめで祝った「光の祭儀」から話に入っていきたいと思います。

「光の祭儀」は、真っ暗な状態から典礼が始まりました。真っ暗な中で静かに始まったわけですが、暗闇は、金曜日に亡くなられたイエスを表しています。手元を確かめることすらできない暗闇。それはそのまま、私たちが、イエスなしには、この世を歩くことができない、早く、光であるイエスに照らしていただきたいという気持ちに私たちを向けます。

暗闇は、イエスの死を表すだけではありません。じつは私たちも、あの闇の中に沈められていました。誰も、この暗闇を破ることができない中で、イエスは光として現れて、この暗闇を払い、私たちの心を照らしてくださったのです。

今、私たちは光の中にいます。もちろん、電気がこうこうとついているのも、光の中ですが、私たちの心の中を照らしているのは、まぎれもない、イエスの光です。この光が、今日私たちに与えられたことを喜ぶのです。

朗読された福音に移りましょう。イエスがお亡くなりになった直後の、日曜日の朝の出来事でした。登場人物すべてが、暗く沈んでいました。もう少し考えると、一人ひとりが包まれていた「暗闇」は微妙に違っていて、婦人たちは沈んではいましたが、イエスの遺体に手当てをしに行こうと出かけましたから、「行動する」だけの力は残っていたのだと思います。ところが、弟子たちはもう絶望の淵に沈んでいたのか、何もする気力がありません。

婦人たちには、イエスへのかすかな希望があったので、いちばん最初にすばらしい出来事に出会いました。天使たちがイエスの復活をお知らせしてくださったのです。婦人たちは喜び、弟子たちに一部始終を話しに行きます。

弟子たちはどうだったでしょうか。かなり、まいっていたのではないかと思います。婦人たちの言葉を聞いても、それがたわごとのように思われたといっています。きっと、弟子たちはイエスと深くつながっていただけに、置かれていた暗闇も深かったのでしょう。

ここには、私たちへの教訓も含まれていると思います。今日のこの日を迎えるまでに、私たちはいろんな深さで、暗闇を抱えていたのではないでしょうか。生活に喜びがないとか、日々降りかかる問題に疲れているとか、親身になってお世話しているのに、ちっとも喜ばれないとか。いろんなことで心の闇を抱え、それを照らしてもらいたいと願って、ここに集まったのだと思います。闇の深さは、それぞれ程度が違っていたのでしょう。

けれども、イエスは、どんなに闇が深くても、光として、私たちを照らしてくださいます。今日、完全に取り去ってもらうことのできない人もいるかもしれません。実際弟子たちは今日完全に喜びに包まれたわけではありませんでした。けれども最後には、イエスの復活が、心のすべてに届き、いっさいの暗闇がなくなっていったのです。

これは、私たちへの教訓となります。この世が作り出す光は、たとえどんなにまぶしくきらびやかであっても、私たちが閉ざされている闇があまりにも深ければ、簡単には届かないかもしれません。けれども、イエスの光は、私たちの心をかならず照らし始め、最後には完全に照らし尽くすのです。

今日、一人の方が洗礼の恵みを受けます。イエスは、洗礼を受けようとしておられる方を、これから生涯にわたって照らし続ける光となって下さいます。私たちは照らしてくださる方がいなければ、闇を歩くしかありませんが、照らしてくださる方がいれば安心できます。しかもイエスは、生涯にわたって照らし導いてくださるのです。イエスを信じて歩き始めようとしている受洗者とともに、私たち自身もイエスの照らしを受けて人生を生きていくことをあらためて確認しましょう。

復活したイエスは、暗闇を照らす光として今私たちのもとにとどまっておられます。まずは私たちがこの光をしっかりと心にたずさえて、光をともし続けましょう。そして、一人でも多くの人に、このキリストの復活の光を届けることができるように、これからのミサの中で続けて願っていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
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