主日の福音07/04/06(No.291)
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
イエスは私たちに罪を問わなかった
今日はイエスの御死去を静かに偲ぶ一日です。イエスはご自分から進んで命を差し出されたのですが、それがどれだけ大きな犠牲なのか、私たちはなかなか感じ取ることができません。初めに、私たちの経験から、イエスの偉大なわざをいくらかでも感じ取る努力をしてみましょう。
長い長い朗読の中に自分を置いて聞いてくださった方々は、今私たちの目の前でイエスがお亡くなりになったことを感じ取ることができたと思います。朗読が私たちに投げかけていることは、イエスが当時の指導者たちの憎しみ・ねたみのために、扇動された群衆、丸め込まれた権力者によって死に追いやられたということでした。そうであれば、イエスは人々から命を奪われたのです。
人のいのちを奪ってしまった場合、私たちはどれくらいの償いが必要でしょうか?車の事故、借金の過酷な取り立てで命を奪ってしまった、あるいは憎しみに駆られて人をあやめてしまった。加害者は裁判を受け、補償をし、社会的な制裁を受け、ある時は刑務所に入ることにもなるでしょう。人のいのちを奪うとは、これほどの重大な過ちであるはずです。
さて、私たちは――もちろん直接には当時の人々ではありますが――今イエスがお亡くなりになったのを目の当たりにしました。辛い言い方かも知れませんが、イエスは人間の犯した罪を償うために命を捧げたのです。そして、教会が当時の出来事を聖金曜日に繰り返し思い起こしているということは、罪を犯す人は皆、本当は加害者なのです。イエスが死をもってすべての人の罪を償ってくださったのですから、罪がなければ、イエスが十字架にかかる理由もないのです。罪から逃れられないのであれば、私たちはやはり、責任を免れません。
人のいのちを奪った人の受ける制裁は、先に話した通りですが、大なり小なり罪を犯してしまう私たちは、イエスの命を奪った償いに、何かの補償をしたでしょうか?社会的な制裁を受けたり、刑を受けたりしたでしょうか?いっさい、そのようなことはしていないと思います。「いっさい」というのは言い過ぎかも知れませんが、罪を犯すことでイエスに十字架を担わせたふさわしい責任を、私たちは果たしておりません。また果たすこともできません。
そうです。もし正直に、私が自分の罪を認めるならば、イエスを死に追いやった、イエスの命を奪ったことも認めないといけませんし、何かの償いをしなければならないはずです。社会であれば、何も償わずにいるということはゆるされないのです。出るべきところに出て、果たすべき責任を果たしてすら、なかなかゆるしてもらえないのが現実です。
そんな大変なことをした人間に、あわれな人間に、イエスは「責任をとれ」とは仰いませんでした。御父も、「わたしの愛する独り子を返せ」とは仰いませんでした。ただ、黙ってゆるしてくださった。責任を問わず、すべてゆるしてくださったことで、イエスはすべてにまさる栄光をお受けになりました。返せ、と言えば言えなくもない。それを、反対に、ゆるして、その上に救いをもたらしてくださった。これが、神のなさり方、神が示してくださった愛なのではないでしょうか。
今日、あらためて十字架を眺め、礼拝いたします。十字架は私が罪を犯してしまったことを見せつけていると感じるかも知れませんが、同時に、神の愛を示している姿でもあるのです。磔にされているイエスは仰います。「わたしは、あなたを罪に定めない。だから、わたしが与える愛に飛び込んできなさい。わたしは今も、あなたを愛しています」。
引き続き、盛式共同祈願と十字架の礼拝に移ることにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
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