主日の福音07/04/05(No.290)
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
イエスにしっかりと留まる一週間にしましょう
いよいよ、一年の頂点、聖なる一週間の中でも礼拝の頂点となる三日間を迎えました。イエスはこの日、御聖体の秘跡と、御聖体を取り扱う司祭職をお定めになります。私たちが司祭になってよく聞かされていた言葉は、「聖木曜日の今日は司祭のお祝い日です」という言葉でした。
さて聖木曜日は、皆さんなかなか参加はできないでしょうが、とっても大切なミサが行われます。現在は聖火曜日に日程が移されていますが、司教司式で行われる「聖香油のミサ」です。
子供のころに勉強した方々は、堅信の秘跡に用いる「聖香油」のことを習ったと思います。堅信の秘跡に用いる油は、「司教が聖木曜日に、香を混ぜて祝別したオリーブ油」です。この油と、ほかに「病者の塗油の油」「洗礼志願者のための油」というものを聖木曜日のミサの中で用意します。
聖木曜日の、司教が油を祝別するミサを「聖香油のミサ」と言ったりしますが、このミサが現在は聖火曜日に行われ、司祭はもちろん、信徒や修道者もなるべくこのミサに集まって、司教と一緒にミサを捧げるように呼びかけられています。
今年も、この聖香油のミサに与って、油を持ち帰ってまいりました。毎年この聖香油のミサの中で、司祭は司教との固い絆を確認し、司教への忠実、司祭としての忠実を約束するわけです。これから、5年前の島本大司教の説教に触れることで、聖木曜日の主の晩さんと司祭職の結びつきについて考えてみたいと思います。
5年前の聖香油のミサで、島本大司教は一つのラテン語の聖歌を引き合いに出されて、司祭職の尊さについて語り始めました。ラテン語のタイトルは、”Tu es Sacerdos”「あなたは永遠の祭司」という聖歌です。その詩の一節に、「(あなたを司祭にすることを)主は誓われた、そして後悔しておられない」という言葉があり、それを取り上げて切々と司祭職の尊さを思い起こすように、集まった司祭に諭されたのでした。
大司教が特に伝えたかったことは、次のことでした。「司祭をお選びになったのは神ご自身ですから、あなたのほうに欠点があっても、神はあなたを司祭として選ばれたことを後悔しておられません。ですから、聖木曜日にこうして集まり、司教と司祭団が一堂に会してミサを捧げる中で、尊い司祭職に招かれたことをあらためて感謝しましょう」。
大司教の説教で、これほど感心して聞いた説教はありませんでした。司祭は、常に自分の才能や、適性や、期待されていることにいくらかの矛盾を感じて生きております。自分はここまで司祭としてやってきたけれども、本当は適性がなかったのではないか、期待されていることに応えてこなかったのではないか、そもそも才能に欠けていたのではないか。
そうした矛盾や、不安や、悩みをかかえながら日々祈りの中で努力しているわけですが、大司教はそれを承知の上で、司祭一人ひとりを励ましてくださったのだと思います。「あなたをお選びになったのはイエスです。イエスは十二人の弟子をお選びになったようにあなたも司祭として選んでくださいました。イエスが、お選びになった十二人の弟子を後悔しておられないのと同じように、あなたを選んだことを後悔しておられません。あなたはイエスから愛されています」。
今日、福音書ではイエス様が弟子たちの足を洗いました。ご自分がお選びになった弟子を、まったく後悔しておられないこと、むしろ今でも、裏切りを受ける直前になってまでも、愛し抜き、後悔なさられない姿が描かれているのでしょう。
聖香油のミサに参加する司祭たちにとって、あの説教は大きな慰めになりました。また一年、司祭として新たな一歩を踏み出すために、イエスの「わたしはあなたを選んだことを後悔していない」という、その一言で十分だと思います。
そして馬込教会に戻っての聖木曜日のミサの中で12人の方の足を洗います。私にとってもあの奉仕は、司祭職という道を後悔していないと実感できるまたとない機会です。不足をあげればきりがありませんが、今年もまた、弟子たちの足を洗われたイエス様に倣って、置かれた中で真心込めて奉仕する一年でありたいと思いました。
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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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