主日の福音07/04/01(No.289)
受難の主日(ルカ23:1-49)
イエスにしっかりと留まる一週間にしましょう

今日、ミサの入祭に、枝の行列をしました。枝を振りながら行列をしたのは、エルサレムに入るイエスを喜び迎えているしるしでした。もちろん、イエスと共にエルサレムに入っていく群衆も、イエスを喜び迎えたのでした。

ところが、わずかな時間で、群衆は当時の宗教指導者たちの言葉を信用して、イエスを十字架に付けろと叫びました。枝を持って、イエスといっしょに喜びながらエルサレムに入った彼らは、なぜ短い時間でイエスを拒み、憎むようになったのでしょうか。

そこで、群衆がイエスといっしょにエルサレムに入ったときのことを考えることにしましょう。もしも、群衆が枝を手に持ってエルサレムに入ったあの時、イエスを固く信じて喜び迎えたのなら、そんなに簡単に態度を変えることはしなかったことでしょう。つまり、群衆はイエスを固く信じてはいなかったということになります。イエスにしっかり留まるほどの固い信仰を、彼らは持っていなかったのです。

群衆の表面的な信仰に対し、固い信仰でイエスから離れなかった人がいました。途中から十字架を担いで行くキレネ人のシモンと、イエスに従った婦人たちです。婦人たちは嘆き悲しみながらも、イエスのもとを離れませんでした。

私たちは、固く信じてイエスから離れなかった人々から今日の学びを得たいと思います。固く信じた人たちが、イエスのエルサレム入りの時に枝を持ってイエスに付き従ったか、はっきりわかりません。または通り道に服を敷いたかもわかりません。けれども、この女性たちはずっとイエスを離れなかったのです。

浮かれているときはイエスのそばにいて、雲行きが怪しくなると手の裏を返してイエスをののしる人々とは違って、ずっと、イエスから離れないこと。これが今日私たちの学ぶべき姿です。イエスから決して離れないという強い気持ちを、今日私たちは学び取っていく必要があります。

そこで、イエスにしっかり留まることを一つの形にして示したいと思います。私たちは今日のミサの始まりに枝を手に持ちました。枝は、イエスを喜び迎えたしるしでした。私たちもまた、イエスを喜び迎えるしるしに枝を持ったのです。

この姿を、そのまま今週一週間につなげていきましょう。私は、枝を手に持つことでイエスを喜び迎えました。この枝を、家の中の毎日目にする場所に、置いてほしいのです。毎日、この枝を見るたびに、イエスを固く信じて留まろうと思っているのか、思い出してほしいのです。

今日、お一人おひとりが手に持った枝を自宅に持ち帰ります。家に持ち帰るとき、もし手が空いているならば手に握ったまま持ち帰ってみてください。手に握ったまま持ち帰った枝は、イエスを喜び迎えたしるし、イエスにしっかり留まることを表明するしるしです。

また、今週は聖木曜日から始まる聖なる三日間の典礼も行われますので、普段以上に典礼に触れることになります。三日間の典礼に触れることは、イエスから離れないということです。生活の中で、また聖なる三日間の典礼を通して、イエスへの信仰に固く留まる一週間といたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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