主日の福音07/03/18
四旬節第4主日(ルカ15:1-3,11-32)
神は先に、私のもとに走り寄ってくださる

今週の福音朗読は、放蕩息子のたとえです。もしかしたら聖書のたとえ話の中でいちばんよく知られているたとえかも知れません。この朗読箇所を、四旬節という季節に結び付けて特に考えてみましょう。

四旬節、イエス・キリストの受難と復活を準備するこの季節は、回心と悔い改めを促す季節です。先週の説教で、回心は神にきっぱりと向き直ることだと話しました。今日のこの放蕩息子のたとえの中でも、財産を使い果たし、食べるにもいよいよ困った息子が、これまでの生活を悔い改め、父親に向き直る決心をします。この態度が、回心する人の姿です。

毎年四旬節になると、この「放蕩息子のたとえ」は朗読されているはずですが、私たちは父親の息子、兄と弟の二人についてはしばしば話を聞くわけですが、どうしたものか、父親の姿についてはじっくり考えたことがなかったかも知れません。そこで今年は、父親に焦点を絞って考えてみたいと思います。

父親は、これまでの生活がふさわしくなかったことを十分反省した息子をゆるしてあげました。ここでよく考えたいことがあります。父親は、息子が十分反省したことを確認して、息子をゆるしてあげたのでしょうか。私はそうではないような気がしてならないのです。

確かに、弟のほうは遠い国の片隅で、反省の態度を表しています。父のところに行って言う言葉も準備ができました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(15・18)。息子が反省したから、父親はゆるしてあげたのではないでしょうか。

実際はそうではありません。「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15・20)のです。まだ息子が反省の言葉を言う前の話です。このたとえ話に出てくる父親は生身の人間ですから、息子の言葉を聞かなければ反省しているのかどうかも分からないはずなのです。

ところが、父親は反省の弁も聞くことなく、先にゆるしてあげたのです。ここに、たとえ話の父親のことをもっとよく学ぶ理由が出てきます。私たちは、十分反省したことを確認してからでないと、なかなか人をゆるしてあげることができません。けれどもこのたとえ話の父親、つまりイエスが示す憐れみ深い神の象徴であるあの父親は、悔い改めを確認してから動くのではなく、先にゆるしを与えるために動いてくださるのです。

この、ゆるすために先に動いてくださる神の姿を、放蕩息子のたとえに登場する父親から学び取りたいのです。息子が十分反省したことを確かめてから「よし、ゆるす」と言うのであれば、父親のほうから走り寄る必要もありません。父親は家の中にいて、息子が平謝りに謝るまで放っておくこともできたでしょう。それなのに父親は、息子が家を飛び出してからいつ帰ってくるかも分からないのにずっと待って、先に走り寄って抱きしめてあげたのです。

私も一度、大変申し訳ないことをして、家に帰り着く前に見つけてもらったことがあります。私は高校卒業してすぐに車の免許を取りに行きました。佐世保の自動車学校が、私の父親も教習を受けた先生のいる学校だったので、1ヶ月間佐世保の親戚の家に下宿して、自動車学校に通い、免許を取ることになったのです。

親戚の家から自動車学校までは結構な距離があって、親戚の家のある程度近くから自動車学校が出している送迎バスに乗せられて学校に行きました。初日は入校式ですから、夕方5時半までいろんな手続きを受け、6時頃に送迎バスに乗って6時半に朝乗せられた場所で降ろしてもらいました。

この日は2月の中旬で、6時半と言えばもうすっかり暗くなっている時間です。私は降ろしてもらった場所から歩き出しましたが、初めての夜道で道が分からなくなり、10分くらい歩いては降ろしてもらったバス停に戻り、また別の方向に10分歩いてはバス停に戻りといったことを何度も繰り返したのです。

そのうちに完全に迷ってしまい、どうにもならなくなって思い付いたたった一つのことは、「自動車学校に戻ってみるかなあ」ということでした。今になって考えると、近くの公衆電話から五島の実家に電話をかけて、親戚の家の電話番号を聞き出し、迷子になりましたと電話をかければ済んだことなのですが、子供だった私はそこまで頭が回らなかったのです。

3時間ほど歩き続けたでしょうか。夜の12時過ぎた頃に親戚のおじさん夫婦が車で私を見つけてくれて、すぐに車に乗せて連れ帰ってもらいました。「寒かったやろう」と心配してくれて、その日のことは何も咎められることはありませんでした。結局学校を卒業して免許を取るまで、けっしてあの時のことを責められたりはしませんでした。

言いたいことはいくらでもあったことでしょう。あんなに心配かけたのだから、ごめんなさいの一言くらいは聞きたかったかも知れません。振り返ると、私はごめんなさいと言ったのかどうか、はっきりしないのです。はっきりしていることは、私が謝る前にすでに、心配して家を飛び出して探してくれ、見つけ出してゆるしてくれたということです。

はっきり分かる形で、私はすべてをゆるしてもらうという体験をしました。あのときの体験は、人がゆるしてもらうというときは、こちらが十分反省したからその報いとしてゆるしてもらうということではなくて、一方的に、何の条件もなしに受け入れてもらうことなのだと分かったのです。

今日、私たちは放蕩息子のたとえを読み、特に父親の姿を考えてみました。弱さの中にある私たちを、神は全面的にゆるしてくださるということです。それも、私の回心が十分であるか不十分であるかに関わりなく、走り寄ってくださいます。

ぜひ、この神の深い憐れみに感謝し、信頼を寄せて毎日を過ごしてほしいと思います。自分の欠点や大事なときに逃げようとする弱さと真剣に向き合いましょう。神の憐れみに信頼を置くならば、私たちは何度でも罪の泥沼から立ち帰る必要があると思います。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
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