主日の福音07/03/11(No.286)
四旬節第3主日(ルカ13:1-9)
さらに自分を神に向けるために

小教区の黙想会の時期になりました。今日から始まる教会も、来週から始まる教会も、年に一度の大切な修養の場として参加してほしいと思います。そこで黙想会への呼びかけとして、今週の福音朗読を考えてみることにしましょう。

今週の福音朗読には二つの柱があります。そしてこれら二つは、互いに関わりを持っています。第一の柱は、「悔い改め」ということです。それも、2度にわたって繰り返されています。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(13・3,5)。この繰り返しは、それだけ強く念を押しているということです。

悔い改めと言いますが、私は具体的にどんなことをすればよいのでしょうか。それは、悔い改めをどう理解するかということにかかってくると思います。私は「神から遠く離れた生活から、神と関わりを持った生活に向き直ること」と説明したいと思います。

例えば、今日一日仕事をこなし、疲れて帰ってきます。食事をし、テレビを見て、体を休める。おそらく体はそれで疲れが取れ、明日を迎えることができるかも知れません。ところが、一日を終えて眠りにつくときに、わたしと神とのつながりが全くないとしたら、私は問題だと思います。

神に心をあげること。一日の終わりにそのほんのわずかの時間を作ることが、まずは私にとっての悔い改めになるのではないでしょうか。疲れ果てて数を数える間もなく眠るということもあるかも知れません。それでも、私は今日、一瞬でも神さまを思い出しただろうか、この仕事は大変危険です、私を守ってくださいと心で祈っただろうか、そんなことを振り返りながら眠りにつくならば、「神から遠く離れた生活から、神と関わりを持った生活に向き直る」態度を行動に移せるのではないでしょうか。

「神と関わりを持った生活に向き直ること」。これは何も、今まで関わりを持っていなかった人にだけ呼びかけられているものではないと思います。毎日きちんと祈りを唱えたり、隣人愛の実践やこの四旬節の季節であれば何かしらの犠牲を実行しているという人でも、何か苦手な部分があって、神さまを向き合うことを避けているかも知れません。生活のどんなにささいな部分でも神さまと関わりを持たせていると言い切ることはできないと思います。面倒を避けて、適当にごまかしている部分があるのではないでしょうか。しばしば曖昧にして言い逃れようとしていたことや、避けていた部分にも、神との関わりを大切に考えて態度を決めるように、今日イエスは前半で呼びかけてくれているのです。

第二の柱は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください」(13・8)というぶどう園の園丁の態度です。ぶどう園の主人から、「さっさと切り倒せ」と言われたときに園丁が示したのは、「憐れみ、いつくしみ」の態度でした。ぶどう園の主人と、その園丁の両方で、「限度を付けないほどのいつくしみ」が示されています。

もともと、ぶどう園の主人は園丁に命令を下すまでの間に相当な忍耐を示しています。ぶどう園の主人はいちじくの実を探しに来ていたわけですが、主人が探しに来ていたのは決していちじくの木が苗木の時にやって来て実がないではないかと言っているのではありません。十分に実が期待できるようになって、それから三年間辛抱していちじくの実を味わいたいと言っているのです。すでに、ぶどう園の主人も寛大な態度を示しています。

そこへ、園丁がさらに猶予を願い出ているのです。「御主人様、今年もこのままにしておいてください」。すでにぶどう園の主人が、人間的に見れば十分と思えるような寛大さを示したのですが、さらに常識では考えられないような、限度を付けないほどの憐れみ、いつくしみが園丁によって加えられています。

ぶどう園の主人と園丁によって引き出されたこのあふれるほどの愛は、最後には私たちを神に向かわせるのです。私たちが誰かに対して、「あなたをかばってあげられるのはここまでだ、もうあなたとこれ以上関わっていられない」と感じるとき、ぶどう園の主人と園丁がいちじくの木に対して示した「大きな憐れみ」を思い出してほしいのです。

ここで求めているのは、「限度を付けないほどの憐れみ、いつくしみ」です。人間の物差しではかる憐れみといつくしみを言っているのではありません。私たちの限度を超えて、その上を行く愛を示すときに、私たちは神に心を挙げることになるのです。

ここまで考えると、二つの柱は、どちらも神に向き直ることを呼びかけているということになります。神に心を上げる時間をすっかり忘れている生活は、もう一度考え直す必要があります。また、人間的にはゆるしがたい出来事や人に向き合わなければならないとき、人間の物差しを越えて愛を示すときに私たちは神に心を挙げることになるのです。

今週の呼びかけをじっくり考えるために、私たちは幸いに黙想会を受けようとしています。これまでの生活に、どこか神に見られたくないと避けてきた部分があるかも知れません。また、これ以上はあなたを受け入れられないと限度を付けていたかも知れません。黙想会はそんな私をもう一度神に向けていくまたとない機会です。さらに心を神に向けるために、また実りある黙想会となるように、このミサの中で恵みを願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
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