主日の福音07/03/04
四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)
人々の中におられるイエスに耳を傾ける

今週の朗読から一点に絞って考えてみましょう。雲の中から聞こえた声です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9・35)。イエスに聞くこと、イエスにのみ、答えを求めること。これが、今日紹介したいメッセージです。

イエスと山に登ったペトロ、ヨハネ、ヤコブは、直接目で見たこと、その場に居合わせて耳で聞いたことがありますから、尋ねたいことがあればイエスに直接聞くことができました。私たちは時代も場所も離れているので、イエスの声を聞くためには違った方法が必要になってきます。それは、出会う人の中におられるイエスの声を聞くということです。私は、出会う人の中におられるイエスの声を聞くことができるでしょうか。

今の時代にあってイエスの声を聞くには、二つのことが必要です。まず、聞くために、心の中に静けさが必要です。日常のなかで静けさを作り出すことは、今では努力なしではできないことです。だれも観ていないのに、テレビが付けっぱなしになっている家庭も多いことでしょう。そんな中で、寝る前の少しの時間を祈りというかたちで静かに過ごす。これは静けさを作り出すために特に勧められることです。

もう一つの心がけは、「これはイエスが声をかけてくれたのではないだろうか」と考えてみることです。ひとつの例を紹介しておきます。先輩の神父様の体験です。今からもう25年も前に実際に体験したことです。この神父様は、ある日バスに乗ろうとバス停に向かいました。停留所のベンチに、当時の突っ張りだった学生がふんぞり返って座っていました。ズボンは、鳶職の人が履くようなダボダボしたズボン、髪は、当時はやっていたのでしょう、金髪の部分染めをしていました。

この神父様は、部分染めというおしゃれの仕方があることを知らなかったのだそうですが、親切心で、その突っ張り学生に言ったのだそうです。「よお、髪の毛にペンキの付いとるぞ。落としたほうがよかっじゃなかか」。

あとで、この学生と神父様は思いがけない出会いをします。何とこの学生、神父様が司牧しておられる教会の信者だったのです。その子が、日曜日のミサにあずかっているではありませんか。髪はきれいにまっ黒に戻していました。神父様はミサの帰りにこの学生に近寄り、声をかけました。「あの時バス停で会ったのは、あんたやったとね」。

すると学生は、こう答えました。「自分は、あんなダボダボのズボンを履いて、髪を染めて突っ張ることが、格好いいと思っていました。でも神父さんから『ペンキの付いとるぞ』と言われたときに、自分では格好いいと思っていたことが、人から見れば格好良くないのかなあと思って、元に戻したとです。でも、まさかバス停におったおじさんが、神父様とは知りませんでした。あ、おじさんと言ってすみません」。何とも微笑ましい話だと思いませんか。

この話を聞いて、私はこんなことを考えました。この学生は、心の奥底ではイエスの声を聞いたのではないか。この学生の主任神父様が何も知らずに「頭にペンキが付いているよ」と言ったとき、学生はその言葉を表面的に取らず、自分のことを真剣に思ってくれる人がいるんだなと考えたのではないでしょうか。

両親も、この学生のことを真剣に考えていたと思います。けれども、反抗期の子に遠慮して、声をかけられなかったのかも知れません。ところが、反抗期の自分に一歩も引かずに、心の中に届く声をかけてくれる人がいた。それは実際には主任神父様だったのですが、声をかけてもらったのは、反抗期であっても一歩も引かずに心に入ってきてくれるイエスだったのではないかと考えたのだと思います。教会に来て、自分に立ち戻るきっかけをくれたイエスにお礼を言いに来た。来てみたら、そこにバス停で会ったおじさんがミサをしていたわけです。

この学生に、両親さえも遠慮して声をかけてくれなかったのかも知れません。それでも、イエスは私たちの生活の中に入ってきて、誰かを通して声を聞かせてくれます。もちろんそのためには、声を聞き逃さないために心の静けさが必要です。私たちの心に静けさがあって、これはもしかしたらイエスの声だったのではないだろうかという振り返りがあれば、イエス様に聞き従い、イエス様の導きで生活を調えていくことができると思います。それは、司祭、信徒、修道者の区別なく、すべて洗礼を受けた人に同じように求められていることなのです。

「彼に聞け」。聞くことが、話すことよりも何倍も大切なことです。私にイエスが話しかけてくれる。そんな瞬間が、イエスと私たちの間にはあるのです。
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‥次の説教は‥‥
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(ルカ13:1-9)
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