主日の福音07/02/25
四旬節第1主日(ルカ4:1-13)
試練を通して神はそばにいてくださる

人間の試練はイエスの試練を考えるにはほど遠いことはよくわかっているつもりですが、ふと思い出したことがあって、当時を振り返るとあれは確かに試練だったなと感じることがあります。そして、今この時期に話しておくと、私の体験がためになる人がいるのではないかと思っております。

私にとってあのときのことは試練だったのだなと感じたこと、それは福岡の大神学校で司祭への階段を一歩一歩踏み進めていく認可式・選任式のことです。私たちが福岡の大神学校にいた当時、8年間の準備期間のうち、前半の4年間には目に見えての準備の段階を踏むことはなくて、反対に後半の4年間では1年ごとに段階を踏んで司祭への道を歩む儀式が用意されていました。

5年生のときには「司祭・助祭候補者認可式」というのがあって、スータンを着るようになります。6年生になると、「朗読奉仕者」になって、第1朗読・第2朗読に特に奉仕する者となります。7年生になると今度は聖体奉仕者と言って、ミサの時に司祭の隣にいて聖体拝領のお手伝いをするようになります。

8年生、つまり最終学年になると、秘跡が授けられ、聖職者の最初の段階である助祭に叙階されます。この最終学年には福音書の朗読が任せられ、日曜日の説教も務めることができるようになります。そしてその後に、大神学校の卒業と、晴れて司祭の叙階を受けてミサの全体を一人でこなすことができる聖職者となるわけです。

大神学校の5年生からは毎年何かの形で段階を踏んでいくわけですが、振り返ると式を受ける直前の時間にはものすごく緊張してその時を待ったなあと思ったのです。相当に準備してその日を迎えているわけですが、式を受けるためにその場にいるのに、なぜかその場から逃げ出したい気持ちもどこかでわいてくるのです。式を受けたいと強く望んでその場にいるのに、どこかで恐れを感じているのです。

私は、あれこそ「誘惑」「試練」なのだと思いました。あと30分で式が始まる。この日のために長い準備をしてきた。この晴れの日に両親と親戚がやってきている。花束が準備され、お祝いの寄せ書きやちょっとした祝儀も準備されている。それが分かっていても、一瞬逃げ出したい気持ちになることがあるのです。

この感覚は何なのでしょう。「誘惑」と考えれば悪魔が私に攻撃を仕掛け、「逃げたいだろう。思い切って逃げてしまえ」ととんでもないささやきを吹き込んでいるということになりますが、神が最後の試練を与えていると思えるなら、「あなたに最後の試練を乗り越えて、次の段階に進んで欲しい」そんな思いが伝わってくることでしょう。

一瞬の迷いというか、その場から逃げ出したいという気持ちを感じたことは確かですが、それでも私は毎年司祭になるための段階を順に進んでいきました。その場から逃げたいと感じたときに、イエスが「さあ、この最後の試練を越えて、わたしのところに来なさい」と言っておられるのだと考えて来たのだと思います。一瞬の迷いや逃げ出したいと思うことは避けられませんが、そうした心の揺れを感じたときに、私が誰を思い出すか、誰に心が向かっていくかが今週私たちに問われているのだと思います。

「うっ、今この場から逃げ出したい」そう思うことは生きている間に何度かあることでしょう。結婚式当日を迎えた新郎新婦が控え室で待っている瞬間であるとか、会社で何か大きな契約を交わすその日の朝であるとか、イエスにすべてを委ねて洗礼を受けようとしているその決定的な瞬間が近づく中でとか、何か大きな場面で逃げ出したいと感じることはあり得るのだと思います。

逃げたくてそのような気持ちになるのではありません。それは本人がいちばん分かっています。この日のために長い準備をしてきたのです。みずから、望んで、他のことを横に置いてさえも、努力を積み重ねてこの日にたどり着いたのです。それでも一瞬の迷いが生じる。逃げ出したい気持ちに駆られる。それを、悪魔の誘惑と思うのか、最後の試練で、イエスにすべてを委ねさせるための神が用意した試練と取るのかは大きく変わってきます。

もちろんこの場合、神が用意した試練なのだと考えて向き合うことが大切なのですが、私はもっと大胆に踏み込んでこう言いたいと思います。「神が試練をお与えになる。試練とはつねに積極的なもので、悪魔は人間を誘惑することはできても、試練を与えることはできない。なぜなら、悪魔は人間に積極的なものを与えることができないのだから」ということです。

人間はいろんな場面で試練を受けます。試練は、積極的なものです。神は積極的なものを与える方ですが、悪魔にはそれができないのです。だから私が今試練に遭っているとき、それは神が試練を与えている時間を過ごしているということ、困難を乗り越えようと神と向き合っているということを知って欲しいのです。

私が今何かの試練に立たされているとしましょう。たとえばこの時期は日本中の教会で復活祭に向けて洗礼の勉強をしている人がいます。中田神父はカトリックの中学校の黙想会の準備を懸命に進めているところです。こんなものでいいのかなあとか、この場から逃れたいなあと一瞬思うかも知れません。

それは試練です。何も与えることのできない誘惑ではないのです。その一瞬の迷いを乗り越えて神に自分を委ねるとき、大きく前進していくのです。大きな進歩を遂げるチャンスであれば、それは神が与えたものに違いありません。悪魔は人間が進歩するような気の利いたものを用意することはできないのです。試練の時こそ、私たちは神と正面向き合っているということなのです。

福音朗読で、悪魔はイエスに対するあらゆる誘惑を終えてイエスから離れたとあります。誘惑しようとした悪魔は、イエスに何も害を与えることはできなかったのです。何も影響を及ぼすことはできなかったのです。

私たちが生活のあちこちで困難を感じるとき、あるいはカトリックの信仰に近づこうとして目標があまりにも遠くに感じたりするその時こそイエスがそばにいることを知りましょう。困難の先にある人間的な成長を期待して、イエスはあなたと共に一歩を踏み出そうとしておられます。

目の前の困難を何も与えない無意味な誘惑と受け取るのではなく、試練と向き合って神が成長させようとしていると知りましょう。試練を通して神がそばにいてくれるなら、悪魔は人間に対して無力であるに違いありません。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
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