主日の福音07/02/18
年間第7主日(ルカ6:27-38)
いま、ここで、人にもしなさい

2月12日月曜日は大変な一日になりました。五島では江袋教会という上五島のいちばん北にある小教区の巡回教会が火災で全焼しました。高島町ではアパート火災が発生し、人命が失われました。火事は絶対に起こしてはいけません。絶対に起こらないように注意しなければなりません。

私はこの12日月曜日に外に出かけたので、ニュースを聞いたときに「うちの教会は大丈夫か」と真剣に考えました。誰もいない時間に何かが起こったらどうなる?もう一度気を引き締めたいと思いました。お一人おひとり、例えば馬込教会について「何も起こってないだろうか」そんな思いは心のどこかに置いていてほしいと思います。実はこの12日は、悲しい事件ばかりではありませんでした。私にとっては心を洗われるようなことが出かける前と外出から帰ってからと二度にわたって起こりました。出かける前、朝の9時30分くらいに、横浜教区からの巡礼グループが馬込教会に訪ねてきました。

私は9時47分の船に乗るつもりでしたが、この横浜からの巡礼者の中には、5月に司祭に叙階される人が含まれていました。司祭叙階を目の前にしている人に、「今日は忙しいから教会を開けることはできません」とは言えませんので、9時47分の船はあきらめて、聖堂に案内し、教会の歴史を紹介することにしました。

少し自慢げに、「長崎では立派な教会が多いと感じていると思いますが、これは信者一人ひとりが自分の教会を誇りに思っているので、このようにいつまでも立派な状態で保たれているのですよ」と話してあげました。あとで考えると、同じ日に五島の教会は火事で全焼してしまい、「信者のおかげで立派に守られているのですよ」という説明を帰ってからどう受け止めただろうかと考え込んでしまいました。

今日の福音では、イエスが「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(6・20)という招きに続けて、「敵を愛しなさい」という呼びかけをする場面になっています。その中で特に取り上げたいのは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(6・31)という箇所です。

威張って言うわけではありませんが、12日月曜日は、9時47分の船をあきらめて、横浜から来た巡礼グループのために時間を作りました。まさにイエスが言ったとおりに、「この巡礼者たちがしてほしいと思うことを、してあげた」わけです。そして、その見返りは何もありません。福音朗読の別の箇所にあるとおり、「何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」(6・35)ということです。

そういえば、火事で全焼した教会の主任神父様に、個人的に早速お見舞いを送り届けました。個人的にはいろいろある先輩ですが、そんなことは別にして、まずはお見舞いの気持ちを届けたい、全司祭が今回のことに心を痛めていることを伝えたいと思いました。思いもかけないことですが、木曜日にお礼の電話が掛かってきました。

12日月曜日、もう一つの心を洗われる出来事は、私事になりますが、自閉症の弟、知的障害者更生施設に入所している三男の弟が、余暇支援の行事でやすらぎ伊王島のバーベキューを食べに来て、そのあとで教会にみんなできて、私に会いに来ていたのです。弟が自分の意志で来たのか、更生施設の先生が生徒を教会に連れてきたのかは分かりませんが、兄が働いている教会で直接会う機会だったのに、残念ながら自分は出かけていて、弟と会うことはできませんでした。司祭館に戻ってみると、弟の置き手紙が郵便受けに入っていました。その手紙を読みながら、弟がこれまで兄の自分をどんなふうに思っていたのかを思い知らされました。手紙をそのまま読み上げたいと思います。

輝次お兄さんへ
きぼうの里から来ていました。今日は余暇支援で、長崎温泉のやすらぎ伊王島にきております。教会までみんなと一緒にきて、お兄さんがおらないことが残念やったです。元気でがんばってください。平成19年2月12日(月)午後13時50分
もっとも愛する弟 靖夫より さようなら
時間があったら電話してください。0957-25-****

私はこれまで、この三男の弟にあまりよい思いを持っていませんでした。早くから諫早の施設に入りましたが、夏休み冬休みになれば母親が送り迎えをしなければなりません。弟のおかげで母親は大きな負担を強いられている。障害がなければ迷惑もかけないのにと、ずいぶん長い間悪い感情を持っていたのです。正直な話、ゆるすことができませんでした。

なかなかゆるしてあげられない。そんな思いを持ち続けていたのに、弟の置き手紙を読んだとき、弟がどれだけ自分を尊敬していたか、愛してくれていたかがよく分かったのです。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。私こそ、先に弟をゆるして、愛してあげなければならなかったのに、弟がまず先に、私をゆるして、愛してくれていた。弟はまともに聖書の勉強もしていません。それなのに、素直に、私への想いを伝えてくれた。イエスが示した生き方を、兄よりもまっすぐに生きていた。私は何と長い間、弟のことを誤解していたのだろうかと、自分を責めたのです。

目の前に、イエスが示した生き方をしている兄弟がいました。私ははっとさせられ、すぐにでも会いたくて、やすらぎ伊王島に電話を入れてみたのですが、弟たちは日帰りで泊まってはいませんでした。すぐに手紙を書き、近いうちに会おうと伝えました。弟はこんな人間なのだと決めつけていましたが、兄の私のほうが弟をまったく理解していなかったのです。弟にしてもらいたいと思うことを、弟にしてあげていなかったのです。

イエスは、「今、ここで」人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさいと呼びかけていると思います。もっと素早く、イエスの求めに応じることのできる弟子でありたいと、あらためて考えさせられました。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
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