主日の福音07/02/04
年間第5主日(ルカ5:1-11)
イエスは今も「漁をしなさい」と呼びかけます

今日の福音、ペトロを含む何人かの漁師は、イエスから「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)という命令を受けます。ペトロは理解に苦しみます。何のために網を降ろすのか?こんな日が高くなってから、漁などまったく期待できません。経験からしても、たとえまぐれでも魚はかかるはずもありません。ペトロは代表して、ていねいに断ります。「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5・5)。

漁師たちの考えでは、網を降ろすのに目標がないのです。無駄に決まっていることをさせられるのは、漁師のプライドが許しません。群衆は私たちの船を見ている、ここで網を降ろして、空の網を上げることになれば、プライドはズタズタに引き裂かれることでしょう。この先生は、これほどの頭脳の持ち主でありながら、そういうことも分からないのだろうか?

実際には、ペトロが頭の中で考えた「なぜ網を降ろす必要があるのか?」を越えて、イエスの言葉は彼をその気にさせます。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)。イエスの言葉をいったん断り、それから引き受けるようになった、この一連の様子について、元のギリシャ語を調べると面白いことに気が付きます。

断りを言うときは漁にたずさわった者みなが答えました。「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5・5)。ところが、イエスの命令を引き受けるときには、ペトロ一人で返事をしていることになっています。「(わたしは)網を降ろしてみましょう」(5・5)。これは、「ほかの弟子が網を入れないと言っても、自分一人ででも網を入れる覚悟です」という意味です。明らかに、ペトロの中で大きな変化が起こったことが分かります。

なぜそこまでしてペトロは網を入れるのか?そこには、単純で、しかも奥の深い理由があるのです。「イエスの言葉だから」。誰かが偉大に見えたり、物事の崇高さに心を打たれたりするとき、ある場合それは人を寄せ付けないこともありますが、イエスの偉大さ、崇高さは、すべての人間的なものを捨てさせて、その人をご自分の元へ引き寄せるのです。人の目には愚かに見えても、人の目を振り切ってでも自分を駆り立てていく何かが、イエスの言葉、一つひとつの行いにはあるのではないでしょうか。

あらためて、ペトロが恥も外聞も捨て、プライドをかなぐり捨ててまでイエスに従った理由はどこにあるのでしょうか。私は、ペトロをそこまで決意させた理由は一つしかない、と考えます。それは、「お言葉ですから」という、イエスの言葉への深い信頼です。これ以外に、ペトロをその気にさせた理由は見あたりません。

「網を降ろし、漁をしなさい」。イエスは当時の漁師たちだけではなく、私たちにも同じように呼びかけます。すべてがうまくいっているときの呼びかけなら喜んで引き受けますが、しばしばその声は、気落ちしているとき、あきらめかけているときなのです。こんなことして、何になるのだろうか。そう思っているときに、イエスは「網を降ろし、漁をしなさい」と呼びかけるのです。

家庭の中で、絶対にゆるせないということが起こった。そんなときイエスは「あなたの隣人を、あなたの配偶者をゆるしてあげなさい」と声をかけます。子どもたちはもう自分の言うことに耳を貸してくれない。いくら言っても無駄だと思えるその時に、「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」(ルカ4・8)と呼びかけます。何度変わりましょうと声をかけても変わらなかったのだから、今さらと思っているところに、イエスはもう一度取り組んでみなさいと言うのです。

人間は見込みのないことをしたがりませんが、イエスは決してあきらめません。どこでどういう形で私たちに声をかけるか分かりません。教会に人が立ち帰ってくるのもその一つです。その人が過去も、プライドも、すべてを振り切って教会にもう一度足を向けてくださったのですから、私たちは喜んで迎えましょう。

教会にかつてのように人が集まってくる。きっとそこには、一人ひとりにすべてをやり直して教会につながりたいと思わせるような、イエスとのはっきりした出会いがあったに違いありません。よく来てくれたね。それだけでいいではないですか。

そんなことしても無駄だとあきらめるのではなく、一人でも多くの人が「網を降ろし、漁をしなさい」という、あの単純だけれども奥の深い呼びかけを理解することができるように、続けてミサの中で祈ってまいりましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(ルカ6:17,20-26)
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