主日の福音07/01/14
年間第2主日(ヨハネ2:1-11)
イエスが日常を喜びに変える

今日の福音のいちばん初め、「その時」と書き換えているところには、もともと「三日目に」という言葉があります。どうしてそのまま載せないのかなあと思うのですが、いちおう、あるものと思って今日の説教は組み立てています。

ヨハネは、時間とか、場所を慎重に書く人ですから、「三日目に」と書いてある場合、それは意味があると考えるべきです。「その時」とでは大きな違いがあります。意味を考えてもらうためにも、そのまま載せて欲しかったのですが。

まず「三日目に」の意味を考えてみましょう。三日目にというからには、昨日、一昨日、一昨昨日があるはずです。聖書を少し前に戻って読んでみると(皆さんも、ぜひあとで少し前を読んでください)、はっきりしないんですね。「その翌日」で始まる記事が、連続で三回も出ています。そうなると、三日目にというのは、いつから数えて三日目かと不思議に思います。

ここでは、「三日目」の意味をもう一つの面から考えるべきでしょう。それは、「イエスの復活」ということとの結びつきです。イエスは、「三日目に」復活されました。だれもが知っている事実です。ヨハネも、福音書が読み上げられる頃には三日目にイエスが復活したことは知られているだろうと見込んで、「三日目に」と書いたのかも知れません。つまり、今日の朗読を考えるときに、三日目にイエスが復活したことと結びつけて考えると、大切なことが見えて来るんだよと、ヨハネはにおわせているわけです。

私はこう考えました。イエスはこの日の婚礼の席で水をぶどう酒に変えました。水は、この場合、「色も味もない」と考えてみましょう。それを、(復活した)イエスはぶどう酒という喜びを与えるものに変えてくださいます。日常生活という、何の変哲もない場所、決まった人と毎日顔を合わせる限られた生活、そんなものが、イエスと出会って、イエスを知った日から、喜びを生み出す場所・出会いに変わるということなんです。

イエスが奇跡を起こされた水の量はどれくらいだったのでしょうか。だいたい、600リットルくらいを考えてください。お風呂にいっぱい水を満たして、それを3倍くらいと考えたらいいでしょう。それだけの量のぶどう酒といえば、それはもう汲み尽くせない量という意味です。ですから、(復活した)イエスは私たちの日常においでくださり、平凡なもの・退屈な出会いの中にも、汲み尽くせないほどの喜びを与えてくださると取ることができます。

何となく、教会に来ているかも知れません。あまり感謝することもなく、毎日を過ごしているかも知れない。イエスがいつも目を注いでくださって、私たちを支えてくださっている。確かに、この信仰で変えられた、救われたという体験を一度でも味わうと、イエスと出会った喜びは汲み尽くせないのです。

もう一つ、今日の福音で、召し使いに言いつけた次の言葉にも注意を払いましょう。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(2・8)。「それ」とは、イエスによって変えられた「水」です。もとは何の変哲もない「日常」でしたが、イエスとの出会いにはっきり気付いたときから、喜びを生み出すようになった「日常」です。その、「ぶどう酒に変わった水」を、「持って行きなさい」と呼びかけるのです。これはつまり、福音宣教のことを言おうとしているのではないでしょうか。あなたが、イエスによって変えられた日常を、何気なく思える出会いを、どこかに運んでください。そう願っているのです。

最後に、一つのことを考えて答えを出しましょう。「それをくんで、持って行く」「イエスが与えてくださる恵みをくんで運んで行く」のですが、どうやって汲むのでしょうか?汲むものはお持ちですか?

私たちがイエスの恵みを汲むものがいくつかあります。祈りを通して、私たちはイエスの汲み尽くせない恵みに触れることができます。また教会の活動や、行事によっても、イエスの恵みに与るでしょう。さらに病床にある人であっても、苦しみ・痛みを捧げる中で、イエスの宝に触れることができます。私たちは、何かしらイエスの恵みを汲む道具を持っているし、イエスが喜びに変えてくださる日常は、汲み尽くせないほど広く深いのです。

生活を振り返り、私は何をもって、イエスが変えてくださる日常から、恵みを汲むことができるか、自分に問いかけてみましょう。「これかなあ」と思うものが見つかれば、喜んで出会う人に運んで行ってください。もし、汲むものをお持ちでない、汲むものが見つからない方は、熱心に、このミサの中で「わたしにも、汲むものを与えてください」と願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(ルカ1:1-4;4:14-21)
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