主日の福音06/12/17
待降節第3主日(ルカ3:10-18)
サブタイトル
今週の朗読で、荒れ野にいる洗礼者ヨハネのもとに群衆が集まり、それぞれ、自分の置かれた立場で何をすれば悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるのか尋ねています。その中で、徴税人が洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたとき洗礼者ヨハネが「規定以上のものは取り立てるな」と答えました。あたりまえのことをあたりまえにしなさいということです。今日は洗礼者ヨハネのこの言葉から出発したいと思います。
私は、洗礼者ヨハネが言った「規定以上のものは取り立てるな」という言葉を聞いて、ふと小神学校時代のことを思い出しました。小神学校で習い覚えた言葉の中に、こんな言葉がありました。「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」。
それが何を教え込むために言われたものか、今となっては思い出せませんが、おそらく「神学生の本分」を説く言葉だったのではないかと思います。当時はこの言葉を小馬鹿にしていまして、からかい半分で言っていたものです。ところが、当たり前すぎるこの言葉、実際は当たり前にできないのです。
決まった時間に、決まったことがあります。私自身のことで言えば、毎日決められた務めがありますし、一週間という中では日曜日のミサのお説教があります。あるいは月単位では教区の新聞「よきおとずれ」、目の見えない人のために準備する持ち時間15分の宗教コーナーの録音、子ども向けの全国版の雑誌「こじか」の原稿などがあります。決まっているもの、必ずやってくるわけですから、いくらぼやいてもやってきますし、いくら文句を言ってもなくなるものではありません。
それなのに、毎度毎度、はあきっつぁよとか、何で自分かなぁとか、ブーブー文句を言っている自分がいます。あたりまえのことをあたりまえにすることがどんなに大事なことか当時の神学校の神父様は経験から分かっていて、教えてくれていたということがよく分かります。今「決まったことを忠実にできない」者が、司祭になってできるはずがないのです。その時は「あーやかまっさよ」と思っていましたが、洗礼者ヨハネの言葉は、今も生きているのです。あたりまえのことを、あたりまえにおこなうことが基本なのです。
今年6月頃だったか、修道者の生活について一つのひらめきがありました。修道会も大きく二つのグループがあります。一つは社会に対して活動を通して関わっていく修道会です。純心聖母会は教育を通して社会に関わっている修道会です。私が考えていたいのは、観想修道会と言って、社会活動はしないで、修道院の中にとどまってひたすら神を礼拝することに集中する修道会です。カルメル会とかトラピスト会とか、レデンプトリスチン修道会とかです。
ある意味社会と縁を切って神さまを礼拝することだけに向かう観想修道会のことを考えていて、ずっと変わらず同じ礼拝を繰り返している修道者たちに対する見方がちょっと変わったのです。毎日の生活には変化がありません。それこそ、「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」です。けれども実はそれが、神が永遠に存在すること、今も昔も変わらず働き続けておられること、神の救いの業がずっと継続していることの証しになるのではないかと思ったのです。
観想修道会の皆さんが毎日少しも変わらない時間割で礼拝を続けているということは、裏を返せば、神の働きが今も昔も変わらずに続いているから礼拝し続けているということです。神の永遠の働きを永遠に変わらずたたえるために、今日も明日も観想修道会の修道者たちは礼拝し続けているのだと思うようになったわけです。
今日、皆さんが持ち帰っていただきたい言葉を、もう一度繰り返します。「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」。これです。あったり前、もう分かっとる、そう思うかも知れませんが、お一人お一人の生活の中で、本当にその通りにしているか、忠実に行うことができるように、神様に助けを求めているか、振り返っていただきたいのです。
馬小屋の飾り付けを見ながら、私は先の言葉をかみしめておりました。毎年クリスマスの飾り付けをします。馬小屋の飾り付けをする。この決まったことを、忠実に果たしていく。毎年その繰り返しです。同じことをしているようですが、材料を少しずつ継ぎ足す必要がありますし、手伝ってくださる人は毎年お願いしないと集まらないでしょう。この当たり前に見える作業が、子供たちにとっては毎年新鮮な喜びとなってくれるわけです。今年も子供たちは、大人たちの飾り付けにワクワクするのです。
当たり前にこなすことが、いかに大変で、大切なことか、本当に考えさせられます。親が、子供に信仰の大切さを教えること。これは当たり前のことです。子供が、自分がこんなに勉強や部活に集中できるのは親のおかげだと知って感謝すること。ごく当たり前のことです。一人ひとり、イエスがおいでになるまでの一週間「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」過ごしていきたいものです。イエスもまた、今年の私たちのために、「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」成し遂げてくださいます。
「イエスよ、今年もわたしたちの心においでください」。そんな期待を持ちながら、この一週間を過ごしてまいりましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
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