主日の福音06/11/12
年間第12主日(マルコ12:38-44)
やもめの姿に殉教者の生きざま
今日の福音朗読で「やもめ」が登場します。マルコによれば「一人の貧しいやもめ」です。「やもめ」と書かれている時点で、「夫を亡くした人、社会的にも弱い立場の人」を表す象徴的存在です。それに加えて「貧しい」とあえて書かれていますから、いかに弱い立場にあったかが分かります。
その、一人の貧しいやもめがイエスの目に留まりました。イエスがずばり指摘したように、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れた」のです。
彼女は、持っているものをすべて入れることで、自分が神に全幅の信頼を置いて生きていることを示しました。それは、ある意味で死をも恐れない態度です。生活費を全部入れてしまった。今で言うならガスも電気も水道も止められて、明日どうやって食べていけばよいのか、そういう状態です。
当時、普通の労働者の賃金が1デナリオンでした。彼女が持っていたとされるレプトン銅貨2枚、または1クァドランスは、割り算すると64分の1にしかならない額でした。それを手放せば、本当ならあとは死しか道はないはずなのです。それでも、彼女は絶望するどころか、ますます神への信頼を深めたのでした。この時すでに彼女は、死さえも恐れていなかったのです。
この女性は、私たちに本当の生きる道を示してくれます。最後の1クァドランスまで神殿に投げ入れることのできた彼女は、この世のものを失うことに恐れを感じていませんでした。この世のものを、それが何であれ、失うことを恐れて生きるなら、神に自分を委ねる気持ちが揺らいでしまいます。何か失いたくないものがあるために、神への信頼ではなく、物への執着を優先してしまうからです。
むしろ、どんなにこの世のものを失っても、神を見つめて生きる。それが、骨のあるキリスト信者、筋金入りの信者ということではないでしょうか。この世にすがって生きるのではなく、神にすがって生きる。やもめに見られるすばらしさを、イエスは私たちに示してくださったのです。
最近、いくつかのニュースやちょっとした用事を済ませる中で、神にすべてを任せて生きている人が今この時代にもちゃんといるんだなと確かめる機会に恵まれました。二人紹介しておきます。一人は、天草出身の神父さまを育てたお父さんです。昨日土曜日の11時頃、たまたまテレビで天草の様子が映り、懐かしいなあと思っていたら、私の知っている天草出身の神父さまが映っていたんです。もしかしたら皆さんもテレビを見たかも知れません。
確信はありませんが、現在天草の三つの教会の主任司祭をしておられるのかも知れません。天草には崎津教会というのがあって、この神父さまは崎津教会の出身で、お父さんも私が天草に巡礼に行った頃健在でした。昨年亡くなられたとテレビの中では言っていましたが、崎津でお会いしたときのことは今でも思い出すことができます。
このお父さんは、ずっと崎津教会に奉仕して人生を全うした方でした。25年ほど前にもこのお父さんは紹介されたみたいですが、その時からすでに、教会ではなくてはならない人、どんなときでも教会のために時間を作ってくれる人だと感じました。このお父さんには、神にすべてを委ねて生きる姿が身に付いていたと思います。
次に、ある教会に「よきおとずれ」の原稿依頼で電話をかけたところ、賄いさんが電話口に出て応対してくれました。すぐに知っている賄いさんだと分かりました。賄いさんのほうから、「覚えていますか、神父さま」と言われて、「もちろん、覚えてます。五島で賄いさんをしていた方ですよね」と言って用件を伝えたのです。
この賄いさんは90歳を過ぎて亡くなったある神父さまの賄いをしていましたが、その神父さまが育ててくれた神父様がある教会の主任司祭になってからは、跡継ぎのようなその神父さまの賄いをしてくださっているのです。亡くなった神父さまの賄いをした後にも、さらに次の神父さまの賄いをしているということは、ずっと教会のためにすべてを捧げてきたということだと思います。
別の生き方もあったでしょう。教会の奉仕や司祭館での奉仕は、かなり大変な奉仕だと思います。それだけのことができる人は、別の場所でも立派に仕事を勤めることができるに違いありません。そう考えると、まったく違った未来もあっただろうと思います。けれども今紹介してきた人たちは、この世に執着せず、神にすべてをお任せして生きることを選んだわけです。
やもめを通してイエスが教えた生き方は、神にすべてを委ねて生きる人の生きざまでした。このすぐれた模範は、私たちの信仰の先輩の時代にもたくさん現れます。どういう形で現れたのでしょうか。殉教者という形です。今年から来年にかけて、日本の殉教者たちに大きな動きが見られます。188人の殉教者が列福されるからです。
つい最近は、このことに関連して、外海の次兵衛岩巡礼のニュースが流れていました。その場所は188殉教者の一人に数えられている金鍔次兵衛神父が迫害の時代に潜伏していたと言われています。日本でキリストの教えを広めるために、次兵衛神父は命をかけて宣教活動を続けました。最後は捕らえられ、長崎の西坂で殉教します。
殉教者こそ、この世に決してすがりつかず、神により頼んで人生を駆け抜けた人たちです。来年11月と言われる188殉教者の列福式は、私たちも神にすべてを委ねて生きることを学ぶ格好の機会になると思います。生きるために神さまにちょっとすがるのではなく、神さまのために生きるという人生が成り立つということ、そのような徹底した生き方であれば、どんな人の心にも響く、語りかける力があると思います。
たいしたこともできませんが、私もまた、すべてを神に委ねて生きた殉教者の生きざまを、自分の人生に写し取って生きていきたいと思います。社会にも、教会のすべての人にも、影響を与えられるような徹底した生き方を、今日のやもめの姿から、また殉教者たちから学びたいと思いました。
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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
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